無抵抗主義
インド独立の父マハトマ・ガンディーが提唱したのは正しくは「非暴力・不服従主義」です。
ガンジーの説いた非暴力・不服従主義は、無力と臆病の正反対、対極にある、フツウの人間には到底望みがたい雄々しい勇気を必要とする、死を覚悟して恐れない人間だけが可能なものです。
ガンディー曰く、
「臆病の別名にすぎない非暴力なら投げ捨てよ」
「私の信念によると、もし、臆病と暴力のうちどちらかを選ばなければならないとすれば、私はむしろ暴力をすすめるだろう。インドが意気地なしで、辱しめに甘んじて、その名誉ある伝統を捨てるよりも、わたしはインドが武器をとってでも自分の名誉を守ることを望んでいる。」
戦後の昭和育ちの年配の方々は人生体験としてご存じのとおり、戦後の日本では、ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が崩壊するまでは、「マスクル・レーニン主義は善であり、平和勢力である。一方、資本主義は悪であり、好戦勢力である」という偏った教義・言論が勢力を揮っていました。
20世紀後半の日本では、ガンディーの非暴力・不服従主義とは異質の、ガンジーの非暴力主義を騙(かた)る無抵抗主義が、政治利用されていたのです。
例えば、「資本主義国家としての日本は悪だから、自衛隊は憲法違反で認めない、在日米軍は日本から出ていけ。非武装の日本にもしもソ連が侵攻してきたら、白旗と赤旗を掲げて迎え入れよう!」などというこんにちでは信じがたい暴論を堂々と唱える知識人・文化人等がいたのです。
21世紀になったこんにちでも、非武装中立論を大真面目に唱える人たちが散見されますが、日本非武装中立論の致命的欠陥は、“日本以外の諸国はみな平和愛好国家なのだから、日本国民が平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、自衛戦争を含めた一切の戦争を放棄すればよいのだ、という妄想” が土台になっていることです。まさしく “脳内お花畑” ですね。
国際連合教育科学文化機関憲章(ユネスコ憲章)の前文の冒頭には「戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない。」という名言が記されていますが、人の心の中に平和の砦を築くための努力は、人種、民族、国籍、宗教、性別等に関係なく、世界中の人間が同時並行して実践することが最大の鍵ではないでしょうか?
一部の日本人と在留外国人の一部の日本人のふりをしている人たちが唱える日本の非武装中立論、日本の(自衛戦争までを含めた)戦争放棄主義の正体は、世界の中で唯一日本人だけが煩悩まみれで危険な存在だと勝手に決めつける反日主義なのです。
マキャベリズム
ルネサンス期の政治思想家ニッコロ・マキャヴェッリが述べた政治思想で、端的に言えば「為政者たる者、ライオンの勇猛と狐の狡知の双方を持たねばならない」というもの。
この「ライオンの勇猛」には、権力への意志、逞しい精力・生命力、実行力などが含まれるでしょうし、「狐の狡知」は、権謀術数、知力、抜け目なさ、臨機応変の策略などを意味するのでしょうね。
国家が生き延び発展していくために必要であるならば、その命運を担う政治家は、場合によっては、あえて市民道徳から逸脱していかなる反道徳的な手段を用いても許される、とするものです。
けれども、こんにちにおいては一般人の間で、自分の私利私欲のためを含め目的のためには手段を選ばないアクドイやり方を指す言葉として使われているようです。
人間の尊厳について
「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもその通りにせよ(人にしてもらいたいと思うことは何でも,あなたがたも人にしなさい)。」--これが有名な、黄金律と呼ばれているものです。
さて、黄金律は本当に人生の成功につながるのかという外国のある大学の調査研究結果によれば………、【人は黄金律の実践のやり方を間違えると逆に不幸になる】。
そういう人のその主な原因は、①ズルイ人にまで親切にして(食い物にされて)いたことと、②自分を犠牲にして他人の世話を焼き過ぎていたこと(←つまり、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」)だったそうです。度が過ぎるお人よしは自身にとってかえって逆効果だということが明らかになったのです。
「狡賢い人に対しては、助けない・教えない・関わらない!」← あれっ? 国家単位の場合には、いわゆる「非韓三原則」と同じですね。
さて、社会単位、国家単位のお話となると、18世紀のイギリスの政治思想家、哲学者、政治家エドマンド・バークの名言が思い浮かびます。
“All that is necessary for evil to succeed is for good men to do nothing.”(=「悪が栄えるために必要なのは一つ、善人が何もしないことである。」)
要するに、「悪には力をもって抗すべきである。でなければ、悪の支配という結果に………」ということでしょう。
もう一度繰り返しますが、「非暴力・不服従主義」を提唱したインド独立の父マハトマ・ガンディーは、次のようにも主張していたのです。
「臆病の別名にすぎない非暴力なら投げ捨てよ」
「私の信念によると、もし、臆病と暴力のうちどちらかを選ばなければならないとすれば、私はむしろ暴力をすすめるだろう。インドが意気地なしで、辱しめに甘んじて、その名誉ある伝統を捨てるよりも、わたしはインドが武器をとってでも自分の名誉を守ることを望んでいる。」
私なりの言葉で言い直すならば、
財産を奪われ自由を奪われ、愛する人を蹂躙されetc.、たとえどんなに人権を侵害されて酷い目に遭っても、命だけは助かるなら、“命あっての物種主義” で “奴隷としての平和” を選ぶのか?
それとも、人間の尊厳のために、祖国の独立と同胞の安全を確保するために、命懸けで “自由の戦士” として立ち上がるのか?
「臆病の別名にすぎない非暴力なら投げ捨てよ」
人間は何のために生まれてきたのか? 何のために生き、何のために死ぬのか? 限りある生涯にどのような人生の価値を実現するのか?
このような問いかけを無視・軽視する人は、唯物論者、物質至上主義者、拝金主義者をはじめ、たとえどんなに偉い学者・知識人等であっても、時代遅れの旧バージョンの頭の良さに過ぎない、と私は考えています。