近年、日本国内で
「除夜の鐘がうるさい」という苦情が入り、
その声に押されるかたちで行事が縮小されたり、
さらには中止に追い込まれる寺院がある――
そんなニュースが散見されるようになりました。
もちろん、現代人の生活リズムが多様化し、
深夜の音が苦痛になる人がいることは理解できます。
それでもなお、たった一件、あるいはごく少数の苦情が、
数十年・数百年続いてきた地域文化を左右してしまう現象には、
多くの人が違和感を覚えるのではないでしょうか。
その違和感の根底には、
「対立を避ける」ことを優先しがちな日本社会の気質が、
ノイズィー・マイノリティ(声の大きい少数者)の主張を
過剰に通してしまう構造を生んでいるという問題があります。
なぜ日本では「一声のクレーム」が通ってしまうのか
アメリカなどのディベート文化が根付いた社会では、
意見の衝突は改善の糸口と考えられ、
異論が出ること自体が前向きに受け取られます。
一方で日本では、
「争わないこと」自体が目的化しやすい社会構造があります。
・苦情はできるだけ穏便に済ませたい
・関係者同士の議論は避けたい
・“事を荒立てない” という判断が最も安全だと見なされる
この結果、
地域の多数派が沈黙し、少数の苦情が過度に反映されてしまう
という現象が生まれます。
寺院や自治体側にしてみれば、
トラブルや炎上を避けたい気持ちから
「中止」という最も簡単な選択肢に流れるのも理解できます。
しかし、この姿勢が繰り返されることで、
地域文化そのものが萎縮し、
公共空間のあり方が少数の “主観的な不快感” に左右される社会を
招いてしまうのです。
「誰か一人が不快なら全体が合わせるべき」は危険なロジック
誰かが困っているのであれば配慮する――
これは人として自然で大切な考え方です。
ただし近年は、“不快” という主観だけで
公共的な文化や伝統までが否定される現象が広がっています。
そのロジックの危険性は次の通りです。
・不快の基準は個々人によって無限に異なる
・主観的な基準が議論されずに絶対視される
・公共空間が萎縮し、地域の営みが消えていく
例えば、
保育園の子どもの声、祭囃子、盆踊り、花火大会――
本来「地域文化の音」であるものまでが、
“迷惑行為” として扱われる事例が増えています。
除夜の鐘も、その延長線上にあります。
地域文化の公共性とは何か
除夜の鐘をめぐる議論で忘れてはならない視点が、
「地域文化の公共性」です。
公共性とは、単に「みんなの利益」というだけではなく、
地域で共有され、長い時間をかけて育まれてきた価値や営みが、
地域全体を精神的・社会的に支える力のことを指します。
(1)地域文化は “個人の好み” を超えた存在
除夜の鐘は、
・年の節目を告げる音
・寺院の宗教的営み
・住民の精神的な区切り
・地域の歴史の連続性
といった多層的な意味を持っています。
これは特定の個人だけの所有物ではなく、
地域社会が共有してきた “公共財” です。
(2)公共財は、個人の主観だけで変更してはならない
公共財の扱いは、本来
「地域住民全体の合意形成」の手続きを経るべきものです。
一部の個人が「不快」と感じたとしても、
それがただちに公共的価値を上回るとは限りません。
地域文化は、
多数決でも、
ましてや苦情の件数でもなく、
丁寧な対話を通じて位置づけを確認しながら、
“共に守り、共に変えていく” 性質のものです。
(3)地域文化を軽んじていく社会は、やがて脆弱になる
伝統行事が消えるということは、
地域のつながり、歴史の連続性、共同体の記憶が
少しずつ薄れていくことでもあります。
公共性を軽んじ、
“個人の不快” が公共の価値より優先される社会は、
時間とともに共同体として脆弱になっていきます。
伝統文化を守るために必要なのは、議論と合意形成
除夜の鐘を続けるか、前倒しするか、縮小するか、
あるいはやむなく中止するか――
どういう結論であれ、
本来必要なのは以下のプロセスです。
(1)地域全体の声を聞く
苦情が1件あっても、
「鐘を楽しみにしている人」の声も必ず存在します。
沈黙している多数派の声を拾い上げる必要があります。
(2)当事者同士が対話する
・どの点が不快なのか
・時間帯調整で改善できないか
・回数や音量の見直しは可能か
といったのは、話し合いで解決できる領域です。
(3)地域文化としての価値を共有する
除夜の鐘の意味を理解し、再確認しながら、
その価値をどう扱うか地域で合意を作る必要があります。
(4)最終決定は「合意による公共的判断」で行う
少数派の権利を守りながら、
多数派の沈黙を掘り起こし、
双方の価値観を調整して、
納得度の高い結論に至るのが民主的な判断です。
まとめ
文化を壊すのも、守るのも、地域社会の “話し合いの力” である。
除夜の鐘がクレームで中止されるという現象は、
日本社会の「対立回避志向」と、
ノイズィー・マイノリティの声が通りやすい社会構造によって生まれています。
しかし、伝統文化の廃止や変更は、
本来は地域全体の議論と合意形成を経て決めるべきものであり、
「誰か一人が不快だから」という単純な理由で
変えるべき性質のものではありません。
むしろこれからの日本社会に必要なのは、
対話し、価値を共有し、合意形成する文化です。
除夜の鐘は、
単なる騒音か、地域の公共財か――
その選択は私たちに委ねられています。
地域が自らの文化をどう扱うのか。
その試金石として、除夜の鐘の問題は大きな意義を持ち続けるでしょう。
