メディアの役割と「擬態的リベラル」の問題――日本の報道空間で何が起きているのか

はじめに

民主主義社会において、メディアは国民の判断材料を提供し、権力の横暴を防ぐ役割を担っています。その象徴的な言葉が「権力の監視」です。

しかし、この役割を果たす前提として、メディアは何よりも事実をありのままに、公正に伝えることが不可欠です。

ところが、現代の日本のマスコミには、この前提が十分に守られていない場面が少なくありません。「正義感」「社会的弱者の味方」「リベラル」などを “錦の御旗” のように掲げ、政治的中立よりも特定の価値観に基づいて報道を行っているように見えるケースが目立ちます。

この背景の一つとして、近年指摘されることが増えた「日本特有の擬態的リベラル」と呼べる思想傾向があります。
本記事では、メディアの役割と報道の偏りの問題を、この「擬態的リベラル」という視点から整理し、考察してみたいと思います。

メディアの基本的役割とは何か?

本来、メディアの役割には次の三つが核として存在します。
事実を正確に報道すること
②社会の多様な意見を可視化し、公共の議論を支えること
権力の行使を検証し、透明性を確保すること(権力監視)

なかでも「権力監視」はしばしば “反権力” と混同されます。しかし、権力を敵視すること自体が目的なのではありません。民主社会において権力が適切に働いているかを事実に基づいて点検し市民に正確に伝える、これこそがメディアの役割です。
そのためには、当然ながら
報道の中立性・公正性が担保されていることが前提となります。

なぜ政治的中立が軽視される報道が生まれるのか?

日本の報道が政治的中立を損なう方向へ傾きやすい理由は、単純な「偏った記者がいる」という話では片づきません。むしろ、構造的な背景がいくつも作用しています。

(1)“正義” が事実よりも優先される文化
日本のメディアは、歴史的経緯もあり
「弱者の味方」
「反差別」
「反戦・護憲」
「反権力」
などの価値を自らのアイデンティティとして掲げる傾向が強いです。
これらの価値観そのものは重要ですが、問題はその価値観が “絶対的善” として扱われ、事実の扱い方を歪めてしまう点にあります。
事実を多面的に扱うよりも、「弱者の物語」「悪い権力」という構図を優先してしまうと、どうしても報道にバイアスが生まれます。

(2)戦後社会に残る “国家への不信” の枠組み
戦後日本では、「国家権力=危険」「軍事=悪」といった価値観が、報道や教育の領域で半世紀以上にわたって再生産されてきました。
このため、安全保障・外交・領土などのテーマに関して、国家の行動を過度に否定的に解釈し、外国側の主張を相対的に優位に扱う傾向が生じやすくなっています。
メディア内部にも、この枠組みを当然視する文化が存在しており、編集方針や番組制作に影響を与えています。

「擬態的リベラル」とは何か?

本来のリベラリズム、個人の自由、権利、多様性、法の支配などを重視する思想です。
しかし、日本の一部で「リベラル」と称されている立場には、欧米のリベラリズムとは異質の特徴が見られます。
ここでは、それを便宜上「擬態的リベラル」と呼びます。

(1)国家主権・安全保障を “無条件に否定” する傾向
自由主義は本来、国家の安定と安全を前提として成立します。
ところが擬態的リベラルの一部は、
・自衛隊や同盟政策への極端な拒否
・どの国にも存在する主権的権利の否定
など、“国家そのもの” を敵視する姿勢を示します。
これはリベラリズムというより、反国家的なアクティビズムに近い性質です。

(2)歴史問題での “自己否定” の固定化
歴史問題に関しては
・日本=加害者
・周辺国=被害者
という二項対立が絶対化され、他の史料や国際比較が排除されることがあります。
これは歴史学的な検証というより「道徳的断罪」であり、外交的にも自国の立場を弱める作用を持ちます。

(3)周辺国の宣伝・主張への共鳴
国家間には情報戦があります。
中国・北朝鮮・韓国などが発信するプロパガンダや歴史認識が、日本の言論空間にそのまま流入し、それを “弱者の声” として取り入れてしまうケースが見られます。
欧米のリベラルは外国政府の宣伝を強く批判しますが、日本ではむしろ共鳴・追随が起こりやすい点が特徴です。

(4)日本の文化・伝統に対する敵対姿勢
家族観、倫理観、教育観など、日本の文化的基盤を「保守反動」として否定する傾向があります。
しかし、欧米リベラリズムは、伝統文化を全面否定するわけではありません。
日本の擬態的リベラルでは、
「伝統への敵意=進歩的」という価値観
が強まっています。

(5)日本国民より他国・他民族への配慮を優先
「国際協調」ではなく、外国系アクティビストや国際ネットワークの主張を優先し、日本国内の多数派の利益や安全よりも、外部勢力の価値観を優先するという事例もあります。
これはもはやリベラルというより、偽装されたグローバリズムと呼ぶべきものです。

この傾向が日本の報道に与える影響

上記のような思想傾向が編集部や制作現場に広がると、以下のような問題が生じます。

(1)日本政府や自衛隊への過度な否定的報道
何をしても「悪い方」に解釈されやすくなり、事実が歪みます。
(2)外国政府の主張を “善意の声” として紹介
結果として日本の外交・安全保障に不利な情報環境が国内に生まれます。
(3)歴史問題を道徳劇にしてしまう
複雑な史実が「善と悪」の二分法に押し込まれ、多角的な理解が阻害されます。
(4)社会規範・文化の否定が過度に強調される
伝統的価値を持つ国民層を “遅れた存在” として扱うことが、社会分断を促します。

いずれも報道の基本である「事実を多面的に検証すること」
から逸脱するものであり、
民主主義にとって深刻な問題です。

まとめ:問題の核心は「思想」よりも「報道倫理」

最終的に、この問題の本質は、
「リベラルか保守か」という思想対立ではなく、報道倫理の欠如そのもの
にあります。

民主社会におけるメディアの使命は、どの立場に立つ記者であれ変わりません。
必要なのは、
事実の多角的な検証
恣意的な編集の排除
事実と意見の明確な区別
国民に判断材料を提供する姿勢
といった、報道機関としての最低限の基準です。
これらは思想的な立場とは本来無関係であり、報道に携わる以上、必ず守られるべき “土台” です。

ところが日本のメディアの一部では、この土台そのものが崩れ、価値観が “正義” として暴走することで、事実の扱いが歪められています。
事実より物語を優先し、意見を報道に紛れ込ませ、国民の判断材料を狭めてしまう。
そうした姿勢が続く限り、社会から「マスゴミ」と揶揄されるのは避けられませんし、むしろ当然の帰結とさえ言えます。

言葉は辛辣ですが――
「報道倫理を取り戻さない限り、メディアは信頼を失ったままであり続ける」
という厳しい現実を、業界自身が受け止めなければなりません。
健全な民主社会は、健全な情報の流れがあって初めて成り立ちます。
そのためにも、メディアが「事実に向き合う姿勢」を取り戻すことが、いま最も求められているのです。

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