痴漢・冤罪・実名報道――感情論を超えて考えるための論点整理

はじめに

痴漢問題をめぐる議論は、近年ますます感情的になりがちです。一方では「被害者の声を疑うな」という強い訴えがあり、他方では「冤罪の恐怖を軽視するな」という切実な声があります。
しかし、公共的議論として重要なのは、どちらか一方の立場に立って相手を黙らせることではありません。事実関係と法の原則に基づき、冷静に論点を整理することです。
本稿では、痴漢と痴漢冤罪、そして容疑段階での実名報道のあり方について、建設的に考えてみたいと思います。

痴漢事件は「一類型」ではない

まず確認すべきは、「痴漢事件」と一括りにされがちな事案の中身が、実際には複数の類型を含んでいるという事実です。
具体的には、少なくとも次の三つを区別する必要があります。
①実際に痴漢行為が行われたケース
混雑した車内などで手が触れたことによる誤認や勘違い、証言の食い違いによるケース
悪意をもって虚偽の被害申告がなされたケース

とりわけ通勤ラッシュ時の電車内では、身体の接触自体が避けられず、第三者の動作を誤って自分への行為だと認識してしまうことも起こり得ます。
こうした状況を無視して、すべてを同一視することは、事実認定を誤らせる原因になります。

「被害を訴える声は尊重されるべきだ」という原則と、「刑事責任は慎重に認定されるべきだ」という原則は、両立しなければなりません。

冤罪は例外的事象ではあるが、無視できない

痴漢冤罪は決して多数派ではありません。
しかし、少数であっても、冤罪が個人の人生に与える影響は極めて深刻です。
容疑段階で逮捕・報道されれば、
・職を失う
・家族や周囲からの信頼を失う
・たとえ後に無罪や不起訴となっても社会的評価が回復しない
といった事態が現実に起こります。

このような結果を踏まえれば、「冤罪は稀だから問題にしなくてよい」という考え方は、公共的議論として適切とは言えません。

虚偽告訴と誤認は区別されるべきである

ここで重要なのは、冤罪が成立した場合でも、それが直ちに「虚偽告訴」に当たるわけではないという点です。
悪意をもって虚偽の申告をした場合と、勘違いや思い込みによる申告とでは、法的評価も道徳的評価も異なります。
この区別を曖昧にしたまま議論を進めることは、被害を訴える側にとっても、訴えられる側にとっても不利益です。

冷静な事実確認と慎重な捜査こそが、双方の権利を守るために不可欠です。

容疑段階での実名報道という問題

本稿の中心的論点は、容疑段階での実名報道のあり方です。
刑事司法の大原則は無罪推定です。つまり、有罪が確定するまでは、誰もが「犯罪者」ではありません。
この原則に立つならば、
・痴漢の容疑をかけられた人
・虚偽告訴の疑いが生じた人
いずれについても、容疑段階での実名報道は等しく慎重であるだ、というのが基本的な立場です。

もっとも、日本社会における犯罪報道の歴史を振り返ると、すべての犯罪について一律に容疑段階の実名報道を否定することが、直ちに社会的理解を得られるとは言い難いのも事実です。
凶悪犯罪やテロ犯罪など、社会に差し迫った危険が及ぶおそれがあり、組織性や継続性が強く疑われる事案については、有罪確定前であっても実名報道が一定程度容認されてきました。

しかし、この報道慣行をそのまま痴漢事件に当てはめることには、慎重であるべき理由があります。
痴漢事件は、その多くが混雑した車内などの密室的状況で発生し、物的証拠に乏しく、供述の比重が極めて大きいという特徴を持ちます。その結果、初動対応の段階で「疑わしきは被告に有利」という刑事司法の鉄則が、必ずしも十分に機能していないとの指摘がなされてきました。
このような構造のもとで、容疑段階から実名報道が行われれば、たとえ後に不起訴や無罪となったとしても、当事者が受ける社会的ダメージは回復困難です。職業生活や家庭生活に致命的な影響を及ぼす例も少なくありません。

したがって、理想論としてはすべての犯罪において容疑段階の実名報道は慎重であるべきだとしつつも、現実的・段階的な対応として、少なくとも痴漢事件については、速やかに次の原則を確立すべきではないでしょうか。
・痴漢の容疑をかけられた人
・痴漢冤罪をふっかけた疑いが生じた人
いずれについても、容疑段階での実名報道は等しく慎重であるべきである、という原則です。

これは特定の性別を擁護するための主張ではありません。
冤罪リスクが相対的に高く、制度上の脆弱性が指摘されてきた犯罪類型について、報道と司法のあり方を見直そうとする、合理的で限定的な問題提起です。

これは「男女対立」の問題ではない

ここで誤解してはならないのは、本問題が「男性か女性か」という対立構図の話ではないという点です。
問われているのは、
・容疑段階で誰がどのような社会的制裁を受けるのか

・その基準が一貫しているのか?
・性別によって扱いが変わっていないか?

という、報道倫理と法の下の平等の問題です。
一方だけに実名報道という強い社会的制裁を課し、他方は慎重に保護するのであれば、それは結果として不平等な取り扱いになりかねません。

想定される批判へのQ&A

本稿のような問題提起に対しては、いくつかの典型的な批判や誤解が想定されます。あらかじめQ&A形式で整理しておきます。

Q1.これは痴漢被害を軽視しているのではありませんか?
A.いいえ、軽視していません。
本稿は、痴漢被害の深刻さを否定するものではありません。実際に行われた痴漢行為は、厳正に捜査・処罰されるべき犯罪です。
同時に、刑事司法においては「事実が確定していない段階での扱い」を慎重にすべきだという原則も守られなければなりません。
被害を訴える声の尊重と、無罪推定の原則は対立するものではなく、両立させるべきものです。

Q2.冤罪はごく少数なのだから、問題にする必要はないのでは?
A.少数であっても、無視できない問題です。
冤罪は統計的には例外的であっても、当事者の人生に与える影響は極めて大きいものです。職業、家族関係、社会的信用を一気に失うケースもあります。
公共制度は「多数派にとって便利かどうか」だけでなく、「少数派の深刻な不利益をいかに防ぐか」という視点でも設計されるべきです。

Q3.被害申告を疑うような議論は、被害者を黙らせてしまうのでは?
A.区別の議論は、被害者を守るためにも必要です。
本稿が求めているのは、すべての被害申告を疑えという話ではありません。悪意ある虚偽告訴と、誤認や証言の食い違いを区別しようという提案です。
この区別を行わないまま議論を進めると、かえって真の被害者の信頼性を損ね、社会全体の受容を弱める結果になりかねません。

Q4.実名報道を控えると、犯罪抑止力が下がるのでは?
A.容疑段階での実名報道と犯罪抑止力の関係は慎重に考える必要があります。
有罪が確定していない段階での実名報道は、刑罰とは別の「社会的制裁」を先行させるものです。これが冤罪の場合、取り返しのつかない被害を生みます。
抑止力を理由に推定無罪の原則を緩めるのであれば、その線引きと影響について、より丁寧な検証が必要です。

Q5.結局、男性擁護・女性批判ではありませんか?
A.本稿は性別の擁護や批判を目的としていません。
問題にしているのは、性別ではなく「扱いの非対称性」です。痴漢容疑をかけられた人と、虚偽告訴の疑いが生じた人が、同じ『容疑段階』であるにもかかわらず、性別によって報道の扱いが変わるのであれば、それは法の下の平等という観点から検討されるべき問題です。

Q6.では、どうすればよいと考えているのですか?
A.少なくとも、次の点が検討されるべきだと考えます。
・痴漢事案の類型を丁寧に区別する捜査・報道姿勢
・容疑段階における実名報道基準の一貫性と透明性
・被害者保護と無罪推定を両立させる制度設計

感情的な対立を煽るのではなく、原則に立ち返った制度的議論が求められています。

編集後記(限定主張についての補足)

本稿では、容疑段階での実名報道のあり方について、あえて「痴漢事件に限定した問題提起」を行いました。
理想論としては、あらゆる犯罪について、容疑段階での実名報道は慎重であるべきだと考えています。しかし、日本社会における長年の犯罪報道の慣行を踏まえれば、この原則を一挙にすべての犯罪類型へ適用すべきだと主張しても、現実的な合意形成は困難でしょう。

そこで本稿では、
・密室性が高い
・物的証拠に乏しい
・供述への依存度が極めて高い
・冤罪が生じた場合の回復が困難
という構造的特徴を持ち、かつ「疑わしきは被告に有利」という刑事司法の原則が十分に機能していないとの指摘が長年なされてきた痴漢事件に、議論を意図的に限定しました。

これは、特定の犯罪を特別扱いするためでも、誰かを擁護・非難するためでもありません。冤罪リスクが高い分野から優先的に見直しを進めるという、段階的かつ現実的な改革の提案です。
この限定的な問題提起が、感情論や対立構図を離れ、報道と司法のあり方を冷静に再考するための一歩となることを願っています。

おわりに

痴漢被害の深刻さを軽視する必要はありません。
同時に、冤罪の可能性を指摘することも、被害者を攻撃する行為ではありません。
重要なのは、
・事実の多様性を認めること
・無罪推定と報道の公平性を守ること
・感情ではなく原則に基づいて制度や慣行を見直すこと

です。

この問題を冷静に議論できる社会こそが、真に被害者を守り、冤罪を防ぎ、司法への信頼を高める社会だと考えます。

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