行政が価値観や意識の領域に踏み込むことを警戒すると、
すぐにこう問われる。
それは保守の立場なのか、リベラルの立場なのか。
しかし、この問いそのものが、問題の核心を見失わせている。
本来、
権力が内心に介入しないよう境界線を引くことは、
保守でも革新でもなく、(政治的)自由主義そのものの原則である。
歴史的に見れば、
国家権力を不信し、
「善意であっても踏み込んではならない領域がある」と主張してきたのは、
むしろリベラリズムだった。
一方で、
「正しい目的のためなら、一定の誘導や介入はやむを得ない」
という発想は、
左右を問わず、権力が肥大化するときに必ず現れる。
つまり、問うべきなのは、
「保守か?、リベラルか?」
ではなく、
「その政策は、権力に対して十分に不信の目を向けているか?」
「個人の内心・沈黙・距離を取る自由を残しているか?」
である。
理念に賛同するかどうかと、
制度設計を疑うかどうかは、
別の問題だ。
この区別を放棄した瞬間、
政治は思想ではなく、陣営への忠誠心の競争になる。
そしてそのとき、
自由は、誰にも気づかれない形で、静かに後退していく。
