〈はじめに:誤解を避けるために〉
本記事は、特定の国家・民族・個人を攻撃したり、戦争や暴力を賛美することを目的とするものではありません。
また、日本国憲法の理念や、平和を希求する市民の思いを否定するものでもありません。
本稿で批判の対象とするのは、
「いかなる侵略や核恫喝に対しても、抵抗や自衛は悪であり、国民が死滅しても受け入れるべきだ」
という思想を、平和主義・人命尊重主義と同一視する考え方です。
平和とは何か、人命尊重とは何かを、現実の国際社会と人間の弱さを踏まえて考えることを目的としています。
「敵国に核攻撃で威嚇されても、日本が対抗するくらいなら、日本が滅びた方がよい」
「侵略されても、人命を奪うのは悪だから、無条件降伏を受け入れるべきだ」
こうした考え方は、一見すると「平和主義」や「人命尊重主義」に見えるかもしれません。
しかしそれは、平和でも尊重でもありません。
生きる責任を放棄した、無抵抗主義にすぎないのです。
国家も社会も、人も、まず生きていなければ、理念を語ることすらできません。
これは冷酷な現実論ではありません。
自国民の人権すら尊重せず、他国を支配し搾取する国家の侵略に対して、
自衛のために立ち上がることを拒み、「生き残れればそれでよい」と無条件降伏を選ぶ発想は、「命あっての物種」を盾にした思考停止であり、まさに奴隷根性にほかなりません。
無抵抗主義は、ガンディーの思想ではない
世間でしばしば誤解されていますが、
無抵抗主義は、インドのマハトマ・ガンディーの思想ではありません。
ガンディーが提唱したのは「非暴力・不服従主義」です。
それは、無力さや臆病さの別名ではなく、むしろその対極にあります。
ガンディーは、はっきりとこう述べています。
「臆病の別名にすぎない非暴力なら投げ捨てよ」
「臆病と暴力のどちらかを選ばねばならないなら、私はむしろ暴力をすすめる」
非暴力・不服従主義とは、
死を覚悟し、不正に屈しない強靭な精神を前提とした闘争の方法です。
「何もしない」「相手の善意にすべてを委ねる」思想ではありません。
戦後日本で政治利用された「偽の非暴力」
戦後の日本、とりわけ冷戦期には、
「社会主義は平和勢力、資本主義は好戦勢力」という極端に単純化された世界観
が広まりました。
その中で、ガンディーの思想とは本質的に異なる無抵抗主義が、非暴力の名を借りて政治利用されました。
「自衛隊は違憲だから認めない」
「在日米軍は出ていけ」
「非武装の日本に侵攻があれば、白旗と赤旗で迎えればいい」
今となっては信じがたいこうした主張が、
かつては堂々と語られていたのです。
非武装中立論の致命的欠陥
現在でも、日本の非武装中立論を真剣に唱える人はいます。
しかしその前提は、あまりにも脆弱です。
「日本以外の国々は、みな平和を愛する善良な国家である」
これは希望的観測にすぎません。
国際社会は、理想ではなく、力と利害が交錯する現実の世界です。
「相手が攻めてこないと信じたい」ことと、
「攻めてこないと保証されている」ことは、
全く違います。
ユネスコ憲章の言葉を、都合よく使わないこと!
ユネスコ憲章前文には、次の言葉があります。
「戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない」
しかし、この「人」とは、日本人だけを指していません。
世界中の人間が同時に実践してこそ意味を持つ理念です。
日本人だけが武装を放棄し、
日本人だけが自衛を否定し、
日本人だけが危険な存在だと決めつける。
それは平和主義ではなく、反日的自己否定思想です。
無抵抗を美徳にするな!
侵略に抵抗しないことを「高潔」と呼び、自衛を「悪」と断じる思想は、
結果として加害者を免責し、被害者に沈黙を強いるだけです。
平和とは、死を選ぶことではない。
生を守る覚悟を持つことからしか始まらない。
無抵抗主義を平和主義と混同する限り、
私たちは同じ誤りを、何度でも繰り返すでしょう。

