※本記事は、戦争を肯定したり、武力行使を称揚することを目的とするものではありません。
一方で、侵略を受けた際に自衛すら全面的に放棄することが、果たして人道的で責任ある選択と言えるのかを、歴史的・現実的観点から検討するものです。
特定の国・思想・個人を非難する意図はなく、現実の国際社会において「命と尊厳をいかに守るか」という問題を冷静に考えるための論考です。
はじめに
近年の日本では、「もし外国から軍事侵攻を受けたとしても、人命を奪うことは悪なのだから、自衛のための戦争すら放棄し、白旗を上げて降伏した上で、話し合いによる和解を目指すべきだ」という主張を、公然と語る人々がいます。
一見すると、きわめて倫理的で、平和を尊ぶ姿勢のようにも映ります。
しかし私は、この考え方に強い違和感を覚えます。
なぜなら、自衛を放棄した後に、侵略国との話し合いが人道的かつ公平に進むという保証は、現実にはほぼ存在しないからです。
「戦争はすべて悪」という単純化の危うさ
この種の主張の背景には、「戦争はすべて等しく悪である」という考え方があります。
しかし国際社会では、
・他国を支配・併合するための侵略戦争
・武力侵攻を受けた側が、生存と独立を守るために行う自衛行為
は、本来、法的にも倫理的にも区別されています。
国連憲章が自衛権を認めているのも、戦争を肯定するためではなく、無制限な侵略を抑止するための最低限の現実的枠組みです。
ただし、ここで重要なのは、「自衛戦争=常に善」とも言い切れないという点です。
なぜ「自衛戦争=善」と一概に言えないのか
歴史を振り返れば、「自衛」を名目として、実質的には先制攻撃を仕掛けた例は少なくありません。また、侵略国自身が「これは自衛戦争だ」と主張した事例も、枚挙にいとまがありません。
・仮想の脅威を誇張し、「攻撃される前に叩くしかなかった」と正当化する
・相手国の内政や軍備を理由に、「先に動かなければ自国が危険だった」と主張する
こうした論理は、結果として侵略を正当化する口実として用いられてきました。
そのため、「自衛」という言葉そのものが、しばしば政治的・宣伝的に濫用されてきたのも事実です。
だからこそ、自衛戦争を無条件に「善」と持ち上げることもまた危険なのです。
重要なのは、「自衛か否か」というラベルではなく、
・本当に差し迫った侵略があったのか
・他の手段は尽くされたのか
・武力行使の範囲と目的は限定されているのか
といった点を、冷静かつ具体的に検証する姿勢です。
それでも「自衛を全面否定する」ことは別問題である
しかし、この慎重さと、「自衛そのものを放棄すべきだ」という主張は、まったく別次元の話です。
無条件の武力放棄を前提にすると、侵略を受けた側は、自らの生命・自由・尊厳を守るための選択肢を最初から奪われることになります。
そこには、倫理的な高潔さというよりも、「抵抗しないことを美徳とする発想」が見え隠れします。
降伏後の「話し合い」は、対等な交渉ではない
しばしば、「相手も人間なのだから、話し合えば分かり合えるはずだ」という言葉が使われます。
しかし、無条件降伏後の「話し合い」は、対等な協議ではありません。
軍事的に制圧された側は、
・政治的自由
・言論の自由
・法の独立
・基本的人権
を大幅に制限される可能性があります。
戦時国際法は存在しますが、それは自動的に守られる安全装置ではなく、力関係と国際的監視があって初めて機能する脆弱な枠組みです。
無抵抗であることが、人道的扱いを保証するという考えは、歴史的にも裏付けられていません。
日本の戦争教育が抱える構造的な空白
このような非現実的な平和観が広まりやすい背景には、日本の戦争教育の偏りもあると考えられます。
日本では、空襲や原爆、疎開など、市民が被った被害については詳しく学びます。
一方で、
・占領とはどのような状態なのか
・無抵抗の社会で何が起きうるのか
・戦時国際法はなぜ存在し、どこに限界があるのか
といった点は、ほとんど体系的に教えられてきませんでした。
その結果、「戦争は悲惨だ → だから拒否すれば悲惨は避けられる」という、感情的で単線的な理解が定着しやすくなっているのではないでしょうか。
「命あっての物種」という言葉の、もう一つの意味
ここで、あえて「命あっての物種」という言葉に触れておきます。
この言葉はしばしば、「生き延びることが何より大切だ」という肯定的な意味で使われます。
しかし、侵略と占領の文脈においては、まったく逆の危うさを孕みます。
つまり、
命さえ助かれば、
人間としての尊厳を捨てても構わない。
どんな非道な命令にも従い、
どんな非人道的な扱いにも耐えるべきだ。
という、奴隷的な発想へと容易に転化してしまうのです。
「生きてさえいればよい」という考えが、いつの間にか「抵抗しないこと」「屈服し続けること」を正当化し、人間の尊厳そのものを切り捨ててしまう――そこに、無抵抗主義の最大の落とし穴があります。
善意と責任ある思想は同義ではない
自衛すら放棄すべきだという主張の多くは、平和を願う善意から出ています。しかし、善意であることと、現実に対して責任を負える思想であることは、必ずしも一致しません。
現実を直視せず、「抵抗しないこと」だけを道徳的に称揚する思想は、結果として社会を無防備にし、最も弱い立場の人々を守れなくします。
平和主義が現実から切り離されたとき、それは理想ではなく、危険な空想に変わります。
いま求められているのは、「戦争か平和か」という単純な二択ではなく、現実の国際社会の中で、いかにして命と尊厳の両方を守るのかを考える冷静な思考ではないでしょうか。
