最近、外国人政策をめぐるニュースが相次いでいる。
在留資格審査の厳格化や、帰化要件の見直しをめぐる政府の動きに対し、コンビニ大手などからは「現場は外国人留学生の労働力に支えられている」「問題なく働いている人は守るべきだ」という声が上がる。一方、SNSでは「規制は必要だ」という意見も少なくない。
こうした議論を見ていて、私は一つの素朴な疑問を覚える。
そもそも、日本はいつから
「大学生がアルバイトをしなければ生活できない社会」
を当然の前提として受け入れるようになったのだろうか。
昭和の時代、「アルバイトをしながら大学に通う学生」は「苦学生」と呼ばれていた。
もっとも、大学進学率の上昇にともない、大学が一部のエリート層だけのものではなくなっていく過程で、学業以外の活動に関心を持つ学生も次第に増えていった。カメラやステレオ、バイク、ギターといった耐久消費財の流行や、高度経済成長期に広がった余暇・レジャーブームを背景に、そうした目的のためにアルバイトをする学生も存在していた。
しかし、「苦学生」と呼ばれていたのは、そうした消費や遊興のために働く学生ではなく、学費や住居費、食費といった最低限の生活を維持するために、やむを得ず働いていた学生を指す言葉だった。
同時に、当時には返済不要の給付型奨学金や、授業料免除といった「正真正銘の奨学金制度」が確かに存在していた。
ところが令和の現在、「苦学生」という言葉はほとんど使われない。
なぜなら、大学生の多くが、働かなければ生活できない状態に置かれているからだ。
しかも「奨学金」と称される制度の多くは、実態としては奨学ローンであり、若者は社会に出る前から多額の債務を背負うことが常態化している。
この状況は、果たして健全と言えるのだろうか。
本来、大学生とは「学業を本分とする存在」である。
学費と最低限の生活費が制度的に保障されてこそ、高等教育は社会全体の基盤として機能する。
にもかかわらず、日本では、平成以降、新自由主義的な政策路線が採られ、「自己責任」が繰り返し唱えられるようになった時代の流れの中で、貧富の差や経済格差の是正、分厚い中間層の復活といった本質的な課題が後景に退き、「働く大学生」「借金を背負う若者」が当たり前の社会像として定着してしまった。
この構造は、日本人学生に限らない。
外国人留学生についても同様だ。
多くの先進国では、留学生の受け入れに際し、「学業に専念できるだけの十分な資金力」を厳格に求めるのが一般的である。
留学とは、本来「労働力を補う制度」ではなく、「教育と人材交流の制度」だからだ。
それにもかかわらず、日本では
「留学生がアルバイトをしなければ生計を維持できない」
という状態を半ば黙認し、その結果として、コンビニや外食産業の人手不足を補う存在として位置づけてしまってはいないだろうか。
もし、アルバイトをしなければ生活できない経済状況にあるのであれば、
それは「留学生として受け入れる条件」を満たしていない、という考え方も成り立つはずである。
奨学金制度による支援は別として、「働かせること」を前提に留学生を受け入れるのは、本来の留学制度の趣旨から外れている。
外国人政策をめぐる議論は、ともすれば
「規制か、共生か」
「排除か、受け入れか」
という二項対立に陥りがちだ。
しかし、その前に問うべきことがある。
なぜ、日本では
日本人学生も、外国人留学生も、
「働かなければ学べない社会」
が当たり前になってしまったのか。
この前提を放置したままでは、どれほど制度を細かく調整しても、問題は形を変えて再生産され続けるだろう。
必要なのは、場当たり的な外国人政策の是非論争ではない。
学生が学生として生きられる社会を取り戻すこと。
貧富の差を縮め、分厚い中間層を再構築し、教育を「労働力確保の手段」から再び「社会への投資」へと位置づけ直すことだ。
外国人留学生をどう扱うかという議論は、
実は、日本社会が自国の若者をどう扱ってきたか、という問題と深くつながっている。
そのことを、私たちは今一度、冷静に考える必要があるのではないだろうか。
