「これさえやれば解決する」という幻想
日本の人口減少問題をめぐる議論では、しばしば「これさえやれば解決する」といった単純化された主張が現れます。少子化対策にせよ、移民受け入れにせよ、あるいは技術革新による生産性向上にせよ、特定の政策が万能であるかのように語られる場面は少なくありません。
しかし、結論から言えば、人口減少対策に「特効薬」は存在しません。
この問題はあまりにも構造的であり、社会・経済・文化・制度といった広範な領域にまたがっているからです。
人口減少問題は「構造問題」である
人口減少は、単に出生数が減っているというだけの問題ではありません。
雇用のあり方、家族観、教育制度、都市と地方の格差、社会保障制度など、長年にわたって形成されてきた社会構造全体の帰結です。
したがって、単一の政策で解決できると考えること自体が、問題の本質を見誤っています。
少子化対策は中核だが、即効性はない
少子化対策が人口減少対策の中核であることは、疑いようがありません。
子育て支援、教育費負担の軽減、雇用の安定、働き方改革など、取り組むべき課題は多岐にわたります。
ただし、仮にこれらの政策が奏功し、出生率が改善したとしても、その効果が労働力人口として表れるまでには、少なくとも十数年、場合によっては二十年以上の時間を要します。
少子化対策は不可欠である一方、即効性を期待できる政策ではないという現実を直視する必要があります。
目前にある労働力不足という現実
一方で、日本社会は現在進行形で、急速な人口減少と労働力不足に直面しています。
中長期的な対策が「じわじわと効いてくる」までの間、何の対応も講じなければ、地域社会や産業基盤が持ちこたえられなくなる恐れがあります。
この「時間差」の問題こそが、人口減少対策を難しくしている最大の要因の一つです。
移民政策は「主役」でも「万能解」でもない
こうした文脈の中で、移民受け入れ政策をどのように位置づけるのかが問われます。
ここで重要なのは、移民政策を人口減少対策の「主役」や「万能解」として扱うべきではないという点です。
移民を受け入れさえすれば問題が解決する、という発想は現実的でもなく、また望ましいものでもありません。
私が考える移民政策の位置づけ
私が考える移民政策の位置づけは、あくまで次のようなものです。
・人口減少対策の主軸は、少子化対策や社会構造改革に置く
・その効果が現れるまでの「つなぎ」として
・無制限・無原則ではなく
・明確な制度設計と社会統合を前提に
・抑制的かつ時限的に
移民受け入れを行う、という考え方です。
「出口」を意識した政策設計の必要性
すなわち、移民政策は補完的・暫定的な手段であって、恒久的な人口政策の中心に据えられるべきものではありません。
政策効果や社会的影響を継続的に検証し、状況次第では縮小や終了も視野に入れる――あらかじめ「出口」を意識した政策設計が不可欠です。
二項対立では問題は解けない
複数の政策を同時並行で講じ、その効果と副作用を検証しながら柔軟に修正していく――遠回りに見えても、それこそが人口減少という難題に向き合う唯一の現実的な道だと、私は考えています。
「移民ではない」と言い続けてきた日本の歪み――社会統合政策が後手に回った結果
言葉(定義)のすり替えが生んだ政策的歪み
もう一つ、見過ごすことのできない論点があります。それは、日本政府が長年にわたり「日本は移民受け入れ政策を取っていない」と繰り返してきたことが、結果として深刻な政策的歪みを生んできた、という点です。
実態は「移民社会化」していた日本
実態としては、外国人労働者の受け入れ規模は拡大を続け、定着化、長期滞在、家族帯同も進んできました。それにもかかわらず、政府は「移民ではない」「あくまで労働力の一時的受け入れだ」という説明を繰り返し、移民政策であることを公式には認めてきませんでした。
この「言葉(定義)のすり替え」は、国民に対して誠実だったとは言い難く、政治・行政への不信感を積み重ねてきた要因の一つです。
社会統合政策が後回しにされた必然
さらに深刻なのは、移民政策を否定し続けたがゆえに、本来不可欠であるはずの社会統合政策が後手後手に回ってきたことです。
日本語教育、制度理解の支援、地域社会との接続、子どもへの教育支援などが体系的に整備されないまま、外国人の定着だけが進めば、摩擦や軋轢が生じるのは避けられません。
可視化された社会摩擦と政治不信
その結果、今日の日本社会では、外国人・移民をめぐる問題が局所的なものにとどまらず、明確に可視化された社会問題となりつつあります。
治安、地域コミュニティ、教育現場、労働現場などで蓄積された違和感や不満は、政治・行政への不信と結びつき、とりわけ保守層を中心に、移民受け入れそのものの早急な中止を求める声を強めています。
見直すべき点と、無視できない現実
もちろん、これまで政府・行政が進めてきた外国人受け入れ政策のあり方は、遅滞なく見直されるべきです。
しかし同時に、外国人労働者なしでは事業が成り立たない産業や事業所が、すでに相当数存在しているという現実から目を背けることもできません。
求められるのは「誠実な政治プロセス」
だからこそ必要なのは、感情的な賛否の応酬ではなく、
・何を、どこまで、どの条件で見直すのか
・受け入れるなら、どのような責任とコストを社会全体で引き受けるのか
を正面から議論する、冷静で誠実な政治的プロセスです。
過去の反省なくして、未来の選択はない
移民政策を否定し続けた結果、なし崩し的な受け入れと不十分な社会統合が進んだ――
この過去の反省に立たない限り、移民受け入れの拡大であれ、縮小・抑制であれ、いずれの選択も社会的な支持を得ることは難しいでしょう。
【補足】誤解を避けるために――不法滞在対策と移民政策議論の峻別
なお、この点に関連して、近年の日本のマスコミ報道のあり方についても、あえて指摘しておく必要があります。
日本の主要メディアの中には、不法滞在や制度悪用への適正な対応そのものを、「排外主義」「差別意識」の表れであるかのように短絡的に非難する傾向が見受けられます。
しかし、このような論法は、冷静な政策議論を妨げるだけでなく、民主主義社会の前提そのものを損なう危うさをはらんでいます。
不法入国や不法残留、あるいは制度を欺いて適法滞在者を装う行為への対応は、特定の国籍や民族を排斥する思想とは本質的に異なります。
それは、法の下の平等、公正な制度運用、社会的信頼の維持という、国家運営における最低限の原則に関わる問題です。
これを指摘すること自体を「排外主義」とレッテル貼りするのは、論理のすり替えにほかなりません。
むしろ、不法滞在や制度悪用を放置・黙認することこそが、結果として真面目に法を守って暮らしている在留外国人に対する不信や反感を助長し、社会全体の分断を深める要因となります。
適正なルール運用を求める声を封じ込めることで、問題は地下化・先鋭化し、最終的には「外国人一般」への感情的な拒否反応が広がる――そのリスクを、マスコミはあまりに軽視してきたように思われます。
移民・外国人政策をめぐる議論において必要なのは、善悪二元論や感情的な断罪ではなく、合法・違法の峻別、権利と義務の均衡、受け入れる側と受け入れられる側の双方が制度に納得できる設計です。
こうした前提を欠いたまま、「厳格な運用=排外主義」という単純化された言説を繰り返すことは、国民の不信感を強めるだけであり、結果的に建設的な移民政策そのものを困難にしていると言わざるを得ません。
