以下は、SNS上に見られる感情的・短絡的な言説に、私たちはどのような「態度」で向き合うべきかを整理するための前編(態度編)です。
個別の制度設計や政策論については、次回の後編(制度編)で改めて扱います。
はじめに――「言い返す」より前に考えるべき態度
SNSでは、移民・外国人労働者・政治全般をめぐって、感情が前面に出た言説が日常的に流通しています。そうした投稿に触れるたび、違和感や危うさを覚える人も多いでしょう。
ただし重要なのは、これらの言説を単に「愚か」「差別的」と断じて終わらせないことです。
なぜなら、それでは問題の根が何も解消されず、むしろ分断を深めてしまうからです。
本稿では、
・どういう態度で向き合うべきか
・どこまでが対話可能で、どこからが線を引くべきか
この二点を軸に考えてみたいと思います。
まず切り分けるべきは「感情」と「主張」です
感情的な言説に向き合う際、最初に必要なのは冷静な切り分けです。
多くの場合、そこには
・雇用不安
・現場での負担感
・政治や行政への不信
といった現実に根差した感情が含まれています。
この部分まで否定してしまうと、相手は「聞いてもらえない」と感じ、態度をさらに硬化させます。
一方で、
「自分たちだけが国民だ」
「異なる意見は国民ではない」
「外国人は秩序の有無に関係なく排除すべきだ」
といった主張の飛躍や一般化は、事実や制度論としては明確に問題があります。
つまり、
感情には理解を示し得るが、主張には検証と批判が必要
この姿勢を崩さないことが、向き合う際の第一歩です。
「国民」を独占する言説には明確に線を引く
特に注意すべきなのは、
自分と同じ考えを持つ人間だけが「国民」「一般国民」である
という発想です。
これは単なる意見表明ではなく、民主主義の前提そのものを壊す考え方だからです。
民主主義における「国民」とは、意見の一致によって選別される存在ではありません。
思想・立場・経験が異なる人々が等しく含まれるからこそ、「国民」という概念が成立します。
したがって、
・異論の存在を否定する
・異なる立場の市民を不可視化する
こうした言説に対しては、
そこは対話以前の問題であり、線を引くべき領域である
と、はっきり認識する必要があります。
対話が可能なのは「制度」に話題を戻せる場合です
では、どこまでが対話可能なのでしょうか。
一つの目安は、議論の焦点を
・外国人そのもの
・特定の集団の属性
ではなく、
・雇用制度の設計
・労働市場の歪み
・国と企業の責任
といった制度や政策の話に戻せるかどうかです。
例えば、
・日本人雇用をどう確保するのか
・低賃金競争を生む構造は何か
・外国人労働者を受け入れる条件やルールは適切か
こうした問いに移行できるなら、立場が異なっていても対話は成立します。
逆に、
・属性そのものへの敵意
・経験の有無を理由にした見下し
が繰り返される場合、それは議論ではなく感情の発散であり、無理に応じる必要はありません。
「理解できない人」と切り捨てることの危うさ
感情的言説を前にすると、
こんな考えの人とは話しても無駄だ
と感じることもあるでしょう。
しかし、その切り捨てもまた、別の問題を生みます。
一方的な断罪は、相手の
・被害者意識
・排他的自己正当化
を強め、「自分たちこそが真の国民だ」という物語を補強してしまいます。
重要なのは、
・すべてを理解しようとしない
・しかし、構造的背景を無視しない
この中間の立場を保つことです。
態度の問題として民主主義を考える
民主主義が衆愚政治に堕落するかどうかは、
感情的な人が存在するか
では決まりません。
問われているのは、
感情を制度的な議論へと変換できる回路が社会にあるか
という点です。
冷静な議論を続ける人が沈黙し、強い言葉だけが可視化される社会では、民主主義は容易に空洞化します。
だからこそ、
・線を引くべきところは引く
・しかし対話可能な余地は手放さない
この姿勢こそが、地味ではあっても、民主主義を支える実践だと言えるでしょう。
おわりに――後編(制度編)へ
感情的で短絡的な言説に対し、常に正面から受け止める義務はありません。
しかし同時に、
なぜそれが繰り返し現れるのか
を考え続けることは、私たち自身が「衆愚」に堕ちないために欠かせない作業です。
向き合うことと、迎合しないこと。
対話することと、線を引くこと。
この二つを混同しない冷静さこそが、いま求められているのではないでしょうか。
