SNS規制論の前に問うべきもの――フェイク問題を生んだマスコミ構造の自己不在

はじめに

生成AIによるフェイク動画や誤情報の拡散が、選挙に与える影響は決して軽視できません。この点について、玉川徹氏がテレビ番組で警鐘を鳴らした問題提起自体は、論点として正統なものだと言えるでしょう。実際、世界各国で同様の議論が行われており、日本だけが無縁でいられる話ではありません。
しかし、今回の発言をめぐって強い反発が起きた背景には、単なる「SNS規制への拒否感」以上の、より深い問題が横たわっています。
本稿では、玉川氏個人を批判するのではなく、そこに象徴されるマスコミ構造そのものの問題として整理してみたいと思います。

問題は「論点」ではなく「立ち位置」にある

玉川氏の主張が反発を招いた最大の理由は、「フェイク情報対策」という論点そのものではありません。
問題は、その議論が
・マスコミ自身の過去の過ちや構造的欠陥を棚上げしたまま
・SNSのみを一方的に問題視する形で語られた
という点にあります。
長年にわたり、日本のマスコミは
・偏向報道や印象操作
・いわゆる「報道しない自由」の濫用
・国民の知る権利を狭める編集判断
・政治的中立を標榜しながら、特定の価値観や政治的立場を事実上PRする報道
といった問題を繰り返してきました。

これらの積み重ねが、テレビ報道に対する信頼の低下を招いてきたことは否定できません。

「訂正しているから責任を果たしている」という幻想

玉川氏は、テレビには誤報があれば訂正義務がある一方、SNSにはそれがないという「非対称性」を指摘しました。確かに制度上、テレビ局には訂正放送という仕組みがあります。
しかし、現実にはどうでしょうか。
・誤報と同じ熱量で訂正が行われることは稀であり
・番組の末尾や別枠で簡潔に触れられるだけ
・なぜ誤ったのか、編集判断のどこに問題があったのかという検証はほとんど行われない
こうした「形式的な訂正」が、本当に視聴者の信頼回復につながってきたのかは疑問です。制度が存在することと、責任を果たしていることは、決して同義ではありません

SNSは原因なのか、それとも結果なのか

近年、SNSが政治情報の主要な流通経路となった背景には、マスコミ報道への不信があります。
テレビや新聞が
・取り上げなかった論点
・都合よく矮小化した問題
・扱うこと自体を避けたテーマ
を、SNSが補完してきた側面
もあります。
もちろん、そこに誤情報や悪意ある扇動が混じっていることは事実ですが、それは「SNSが登場したから突然生まれた問題」ではありません。
むしろ、既存メディアが十分に機能しなくなった結果として、SNSが肥大化したという面を直視する必要があります。

本来問われるべきはマスコミの自浄作用

フェイク情報対策を本気で語るのであれば、まず必要なのはマスコミ自身の自己検証です。
・なぜ偏向や誤報が繰り返されたのか
・なぜ訂正が信頼回復につながらなかったのか
・視聴者や国民の不信に、どう向き合うのか
これらを総括せずに、外部であるSNSだけを規制対象として論じれば、「自己免責」「責任転嫁」と受け取られても仕方がありません。
言論空間にルールを設ける議論は、極めて慎重であるべきです。その議論を主導する側が、まず自らを律し、透明性を高め、自浄作用を示さなければ、社会的な合意は到底得られないでしょう。

おわりに

フェイク情報が社会問題化したのは、SNSが存在したからではありません。
情報を選別し、伝え、信頼を担保するはずだった既存メディアが、その役割を十分に果たしてこなかった結果です。
規制は信頼の代替にはなりません。
マスコミが自らの構造的欠陥と向き合い、説明責任を果たさない限り、
どれほど正当な問題提起であっても、それは「管理したい側の論理」と受け止められ続けるでしょう。
問われているのは、誰を縛るかではなく、誰がまず信頼に値する存在になるのかという点なのだと思います。

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