2月8日投開票の衆議院総選挙において、与党・自由民主党は単独で衆議院の三分の二の議席を獲得するという、戦後政治史においても例を見ない歴史的大勝利を収めました。高市首相は、選挙期間中に掲げていた政権公約に基づき、今後それらの政策を推進していく意向を表明しています。
この選挙結果を受けて、一部の政治評論の場では、「圧勝した政権の暴走を止めなければならない」といった強い表現が用いられるようになりました。しかし、政治の議論において「政権の暴走」という言葉は非常に強い響きを持つものであり、本来は慎重に使われるべき概念です。
だからこそ、この言葉を用いるためには、いくつかの前提条件が丁寧に示されなければなりません。
まず第一に、「何をもって暴走と呼ぶのか」という定義が必要です。
単に選挙で勝利した政権が、自ら掲げた公約の実現を目指すこと自体は、民主主義の基本的なプロセスです。
それを「暴走」と呼ぶのであれば、どの時点で、どの行為が、どの原理から逸脱しているのかを具体的に説明する責任があります。
第二に、「どの政策が問題なのか」という対象の明示が不可欠です。
安全保障なのか、経済政策なのか、制度改革なのか。
その中のどの部分が、憲法や法治主義、立憲民主主義の原則と衝突しているのかを示さずに、「暴走」とだけ語るのは、評価ではなく印象操作に近いものになります。
第三に、日本の政治制度における制度的な歯止めへの言及が欠かせません。
日本は大統領制ではなく議院内閣制を採用しており、首相の権限は国会、多数派・少数派の存在、司法、世論など、複数のチェック機構に常にさらされています。
これらの制度が機能しない、あるいは無力化されているという説明がないまま「暴走」と断じるのは、制度設計そのものを無視した議論です。
にもかかわらず、
「圧勝した政権の暴走を止めなければならない」
という表現だけが独り歩きすると、
視聴者や読者は、何が問題で、何をどう考えればよいのかを判断する材料を与えられません。
こうした言葉遣いは、実は政権そのものよりも、有権者の判断能力に対する不信を前提としているように見えます。
制度を理解し、政策を比較し、選挙という形で意思表示をした国民よりも、自分の危機感のほうが常に正しい――その無自覚な優越意識こそが、「暴走」という強語を安易に使わせているのではないでしょうか。
言い換えればそれは、選挙結果そのものを正面から論破できないまま、抽象的な恐怖だけを振りかざす「負け犬の遠吠え」に近い響きを帯びています。
政策論や制度論で勝負せず、説明を尽くさず、ただ危険だと叫ぶ。
そこに残るのは、政治批評の体裁を借りた感情表明だけです。
政治評論とは、本来、危機を煽ることではなく、
「どこが論点で、どこに判断の分かれ目があるのか」を言葉で可視化する営みのはずです。
その前提を省いたまま「暴走」という言葉を使うことは、議論を深めるどころか、国民の政治的リテラシーを軽視し、思考停止を招く結果にしかなりません。そして同時に、国民のテレビの報道番組離れ・ワイドショー離れを、さらに加速させる結果にもなるでしょう。
