はじめに
※この記事を読んでほしい人
選挙や政治討論を見ていて、「この質問、本当に建設的なのだろうか?」と一度でも感じたことがある方へ。
政治に対する関心が高まる一方で、私たちは日々、テレビやSNSを通じて多くの「鋭い質問」「追及の言葉」に触れています。
それらの多くは一見するともっともで、「正論」に聞こえるものも少なくありません。
しかし、正しいことを言っているはずなのに、
なぜか議論が深まらず、理解も広がらない。
そう感じる場面が増えているのも事実ではないでしょうか。
この記事では、特定の個人を批判することを目的とせず、ある具体的な出来事を素材にしながら、私たち有権者が身につけるべき「問いの見分け方」について考えてみたいと思います。
私は個人を批判する意図はありません
最初に、明確にしておきます。
私は、TV番組で質問をした出演者個人を非難したり、人格的に批判したりする意図は一切ありません。
ここで取り上げるのは、
・誰が悪かったのか
・誰が正しかったのか
を決めるためではなく、この種のケースに共通する構造を整理するためです。
具体例:選挙直後に投げかけられた「責任」の質問
今年2月8日の衆議院解散総選挙で投票が終了した直後、
テレビ番組において、出演者から高市総理に対し、次の趣旨の質問が投げかけられました。
「もし減税ができなかった場合、高市総理はどのように責任を取るのでしょうか。
政治家として、責任の取り方についての覚悟はおありなのでしょうか。」
この質問を聞いて、違和感を覚えた人もいれば、
「当然の質問だ」「責任を問うのは当たり前だ」と感じた人もいたでしょう。
重要なのは、この質問が正しいかどうかを即断することではありません。
なぜこの質問は“引っかかる”のか
この種のケースで注目すべき点は、三つあります。
① タイミングの問題
投票が終わった直後の段階では、
・国会の構成
・政策実現の条件
・予算や他党との調整
といった前提条件が、まだ何一つ確定していません。
その段階で「できなかった場合の責任」を先に問うことは、
政策の中身よりも、覚悟や態度の表明を優先させる問いになりがちです。
② 問いの焦点が「制度」ではなく「個人」に寄っている
本来問われるべきなのは、
・減税はどの制度を、どの規模で行うのか
・実現には何が障壁になるのか
・有権者は何をもって評価すべきか
といった制度的・構造的な論点です。
ところが、この種の質問では、 議論の軸が「総理個人の覚悟」や「責任の取り方」に集約されてしまいます。
③ 「強い質問」に見えて、実は議論を閉じてしまう
「責任を取る覚悟はあるのか」という問いは、
とても厳しく、鋭く聞こえます。
しかし、
・「ある」と答えても抽象論にしかならず
・「ない」と答える選択肢は事実上存在しない
という点で、答えの幅が極端に狭い質問でもあります。
その結果、政策の是非や条件についての理解は、ほとんど進みません。
「責任を問うのは当然では?」という反論について
もちろん、こうした反論は成り立ちます。
権力を持つ政治家なのだから、責任を問われるのは当然だ。
その通りです。
政治家に責任が伴うこと自体を否定する人はいないでしょう。
ただし問題は、責任を問うこと自体が目的化してしまうことにあります。
責任論が先行すると、
・政策の実現条件
・失敗した場合の検証方法
・次に何を改善すべきか
といった、民主主義にとって本来重要な議論が後景に退いてしまいます。
この種のケースから私たちが学べること
同様の事例は、選挙後や政策発表直後に、何度も繰り返されています。
だからこそ、有権者である私たちには、
・「厳しい言葉かどうか」ではなく
・「議論が前に進む問いかどうか」
を見分ける視点が求められます。
メディアと有権者、それぞれへの問い
メディア側へ
その質問は、視聴者の理解を深めるためのものなのか。
それとも、緊張感や対立を演出するためのものなのか。
有権者側へ
私たちは「強そうな質問」に拍手する前に、
その質問が何を明らかにし、何を曖昧にしているのかを考えているでしょうか。
おわりに――ひとことで言うと
民主主義を育てるのは、「正しさ」そのものではなく、
正しさをどう問い、どう理解するかという姿勢です。
その視点を共有できる有権者が増えることこそが、
社会の成熟につながっていくのだと思います。
