なぜ「正義の側」は自己修正できなくなったのか――国会・報道・国民が作った構造

はじめに:構造を変えれば、言論は変わり得るのか

前編(第一弾)記事『なぜ日本の左派は『自業自得』が見えなくなったのか』では、日本の左派勢力の一部が「自業自得」という視点を持ちにくくなっている背景として、国会審議の構造とマスコミ報道の慣行が相互に作用してきた可能性を整理しました。
そこでは、特定の思想や人物を批判するのではなく、「なぜ自己修正が働きにくくなるのか」という構造的な問題に焦点を当てました。

しかし、問題を指摘するだけでは不十分です。
より重要なのは、「では、その状態は変えられるのか」「自浄能力は回復し得るのか」という点でしょう。
本稿となる第二弾では、この問いに対して、制度と報道という二つの側面から考察を進めます。個々人の善意や覚悟に解決を委ねるのではなく、言論の振る舞いを方向づけている「仕組み」そのものに目を向けるためです。
 国会審議は、なぜ「議論」よりも「追及」の場になりやすいのか。
 マスコミの「権力監視」は、どこで目的化し、どのような副作用を生んでいるのか。
 そして、それらは本当に民主主義の成熟に資しているのか。

本稿の目的は、誰かを断罪することではありません。
また、「かつての理想」に回帰することでもありません。
現実の制度と慣行を直視したうえで、どこを変えれば、何が変わり得るのかを冷静に見極めることにあります。

なお、本稿で述べる改革や見直しの方向性は、特定の陣営にのみ当てはまるものではありません。
自浄能力の回復は、左派・右派を問わず、日本の民主主義全体にとって共有されるべき課題だからです。

次章ではまず、国会審議の在り方に注目し、「問い詰める場」として定着してきた議論空間が、どのような制度的条件のもとで形成されてきたのかを確認します。

国会審議から見える「自浄能力」の劣化

本章では、国会審議という最も制度的に整えられたはずの場において、自浄能力がどのように機能不全に陥っているのかを検討します。
結論から言えば、現在の国会では「間違いを正すための議論」よりも、「間違いをなかったことにするための議論」が優先される傾向が強まっています。

かつて国会審議は、政府提出法案や政策判断について、与野党が立場の違いを超えて問題点を洗い出し、必要に応じて修正を行うための場でした。
与党にとって不利な事実が明らかになった場合でも、それを踏まえた上で説明を尽くし、場合によっては方針転換を行うこと自体が、政治の責任であり、成熟の証と考えられていました。

しかし、戦後政治が一定の安定期に入った後、少なくとも数十年単位で国会審議を振り返ると、その前提が大きく揺らいでいることが分かります。
野党による追及に対し、論点をずらした答弁や、質問そのものを否定する姿勢が繰り返され、事実関係の確認や論理の整合性よりも、「いかに問題が存在しないように見せるか」が重視されているように映ります。
この変化を象徴するのが、「手続き的には問題ない」「法律には違反していない」という答弁の多用です。これらの表現は、本来であれば一定の説明を補強するための補助線に過ぎないはずです。しかし現実には、それ以上の検証や説明を拒むための防波堤として機能してしまっています。
制度の趣旨や国民への影響、倫理的な妥当性といった本質的な問いが提示されても、それらは「法令違反ではない」という一言で遮断され、議論は前に進みません。
結果として、国会審議は形式上続いているものの、自己修正の契機を自ら放棄している状態に近づいています。

さらに問題なのは、このような答弁姿勢が、与党内で是正されにくくなっている点です。かつてであれば、与党議員の中からも「説明が不十分だ」「このままでは国民の理解は得られない」といった声が上がり、内部調整や軌道修正が行われる余地がありました。
しかし少なくとも数十年にわたる流れの中で、政府答弁を守り切ること自体が「与党としての責任」であるかのように扱われ、異論を唱えることが忌避される空気(それ自体が制度運用上のインセンティブとして機能する状況)が強まっています。

この構造の中では、国会審議は自浄能力を発揮する場ではなく、組織防衛のための儀式へと変質していきます。間違いを指摘する行為は、改善への貢献ではなく「敵対行為」と見なされやすくなり、結果として問題は温存され、次の不信を呼び込むという悪循環が生じます。

国会は、本来であれば政治権力が最も厳しく自己点検される場所であるはずです。その場で自浄能力が機能しなくなったとき、民主主義は形式を保ったまま、実質を失っていきます。
この現象を単なる与野党対立の激化として片付けてしまえば、問題の本質を見誤ることになるでしょう。

報道はなぜ「監視」から降りられなくなったのか(報道編)

国会審議のあり方と並行して、日本の報道機関の姿勢もまた、数十年単位で変質してきました。ここで論じたいのは、特定の社や番組、あるいは個々の記者の問題ではありません。戦後日本の報道全体が、長い時間をかけて形成してきた職業倫理と、その自己固定化についてです。

戦後の日本社会において、「権力監視」は報道の中核的価値とされてきました。ここまでは、民主主義社会において不可欠な役割です。行政や与党が強大な権限を持つ以上、それをチェックする存在が不可欠であるという考え方自体は、きわめて健全なものです。この点に異論を挟む必要はありません。

しかし問題は、その価値が長年のうちに単純化され、「権力を批判している状態=善」「権力から距離を取っている自分たち=正義の側」という自己認識へと固着していった点にあります。
この変化は、ある一時期に突然起きたものではなく、政治が安定し、政権交代が限定的だった時代を通じて、徐々に進行してきたものだと考えられます。

この構図が定着すると、報道の視点は自然と野党側、あるいは「告発する側」に寄り添うものになりやすくなります。
国会での追及が、その妥当性や有効性とは切り離され、「権力を問いただしている」という形式そのものによって評価されるようになるからです。

その結果、報道は次第に、政策の中身や制度設計の是非よりも、「追及がどれだけ鋭いか」「答弁がどれだけ詰められたか」という見せ方を重視するようになります。
これは視聴率や分かりやすさの要請とも結びつき、時間をかけた検証や、立場の異なる論点の整理を後景に追いやってきました。

重要なのは、この傾向が常に一定だったわけではない、という点です。
政権交代期や社会的緊張が高まった局面では、報道の自己反省や多角化が試みられた時期もありました。
しかし、そうした揺り戻しがあっても、「権力監視こそが報道の存在理由である」という大枠の自己定義自体は、ほとんど見直されないまま維持されてきたのです。

その結果として、報道はいつの間にか、自らもまた社会的影響力を持つ「権力の一部」であるという認識を持ちにくくなっていきました。
批判される側ではなく、常に批判する側であるという位置取りが、自己点検の回路を弱めていったと言えるでしょう。

この構造は、先に見た国会審議のあり方と深く共鳴し、相互に補強し合ってきました。
反論されない場で、追及する側が「正義」を語る政治と、検証されにくい立場で「監視」を続ける報道。
その相乗効果が、長い時間をかけて、「自分たちは誤らない側にいる」という無意識の前提を育ててきたのではないでしょうか。

次章では、この構造がどのように民の側の思考様式や政治参加の感覚に影響を及ぼしてきたのか、そして国民自身もまたこの構造の外部にはいなかったという点について考えていきます。

なぜ国民もまた、この構造から自由ではなかったのか(国民編)

ここまで見てきた国会審議と報道の構造は、政治家やメディア関係者だけの問題ではありません。これらは長い時間をかけて、国民の思考様式や政治との向き合い方にも影響を及ぼしてきました。

国会では「追及する側」が正義を体現し、報道はそれを「権力監視」として増幅する。その構図が繰り返される中で、国民の側にも次第に、ある種の期待と安心感が形成されていきます。
それは、「誰かが代わりに怒ってくれる」「正義は常にあちら側にある」という感覚です。
この感覚は、決して怠惰や無関心から生まれたものではありません。むしろ、多忙な日常の中で政治を理解し、評価するための、合理的な省力化の結果だったと言えるでしょう。
複雑な制度や政策を一つひとつ検証する代わりに、「正義の側に立つ人々」を信頼する。その選択自体は、自然なものです。

しかし、この省力化が長期間続くと、国民は次第に「判断する主体」から「評価を委ねる存在」へと位置を変えていきます。
国会での追及の鋭さや、報道の語調の強さが、そのまま是非の基準として受け取られるようになるのです。
その結果、政治的言説は「正しいかどうか」よりも、「どちらの側から語られているか」で受け止められやすくなります。
異論は、内容以前に「敵の側の主張」として処理され、検討の対象から外れがちになります。
これは、国民一人ひとりの寛容さの問題というよりも、長年にわたって形成されてきた言論環境の帰結です。

さらに重要なのは、国民がこの構造に適応することで、構造そのものが強化されていった点です。
追及型の国会審議や、善悪二分法的な報道は、分かりやすさと感情的満足を提供します。
それに応じて注目や支持が集まれば、政治も報道も、その様式を維持・再生産する動機を持つことになります。

こうして、国民・国会・報道の三者は、誰か一人の悪意によるのではなく、相互に適応し合うかたちで、現在の構造を作り上げてきました。
その意味で、国民は被害者であると同時に、完全に無関係な外部者でもなかったのです。

本稿で見てきた問題は、「誰が間違っているか」を決めるためのものではありません。
重要なのは、この構造がどのように成立し、なぜ自己修正が働きにくくなったのかを理解することです。

続々編(第三弾)の予告

次に問われるべきは、「では、どこから変えうるのか」「どのような条件が整えば、自浄能力は回復し得るのか」という点でしょう。
第三弾の記事では、制度改革、報道倫理、国民の側の成熟という三つの視点から、この問いに正面から向き合います。

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