いじめは明らかな人権侵害です。
暴言、排除、侮辱、沈黙の強制。
それは人格と尊厳を傷つけ、ときに命を奪います。
平成以降、いじめを苦にした子どもの自死は繰り返し報じられてきました。
なかには重大な刑事事件にまで発展した事案もあります。
ここまで現実が深刻化しているにもかかわらず、
いじめは人権運動の “中心争点” とは言い難い――。
この違和感は、もはや素朴な疑問ではありません。
優先順位そのものを問う問いです。
かつての説明は、いまも通用するのか
従来、いじめが人権運動の中心化にしにくい理由として、次のような説明がなされてきました。
・国家対個人の構図に当てはまりにくい
・成長過程の問題と矮小化されやすい
・固定的なマイノリティ集団が存在しない
・学校という専門的・閉鎖的空間に属する
昭和期であれば、ある程度理解できる説明だったかもしれません。
しかし、令和の現在、
命が失われ、社会的関心が高まり、制度対応の不備が繰り返し指摘されている状況においても、
これらの理由がそのまま通用するのでしょうか。
率直に言えば、もはや十分な説明にはなりません。
いじめは「公的責任」の問題に変質している
いまや、いじめは単なる子ども同士の衝突ではありません。
・学校の対応が問われる
・教育委員会の説明責任が問われる
・調査の独立性が問題になる
・隠蔽や不十分な報告が批判される
ここまで来れば、構図は明らかに
個人間の問題ではなく、公的責任の問題です。
つまり、「国家対個人」の図式に当てはまらないからという説明は、すでに時代遅れになりつつあります。
なぜ、それでも中心争点にならないのか
それでもなお、いじめが政治や人権運動の最前面に立ち続けないのはなぜでしょうか。
理由の一つは、政治構造にあります。
・劇的な法改正で即効的成果を示しにくい
・明確な “敵” を設定しにくい
・短期的な政治的利益につながりにくい
いじめ対策は地道で、長期戦で、制度改善の積み重ねが必要です。
派手な対立構図を作りにくい。
その結果、優先順位が後ろに回りがちになる。
しかし、これは説明にはなっても、正当化にはなりません。
本当に問われるべきもの
問われるのは、個別事案だけではありません。
問われているのは、
・社会の関心は持続するのか
・運動は “扱いやすいテーマ” を選んでいないか
・政治は短期的争点を優先していないか
という、優先順位の構造です。
人権を語ることは理念の問題です。
しかし、人権を守ることは優先順位の問題です。
理念がいくら崇高でも、
目の前の子どもの尊厳が後回しになるなら、
その理念は空洞化します。
令和の人権課題としてのいじめ
2026年の現在において、いじめは
・命の保護
・告発者の保護
・証拠保全の整備
・学校責任の透明化
といった具体的政策課題を伴う、
明確な公的テーマです。
これは教育論だけで閉じるべき問題ではありません。
人権の原点は、
最も弱い立場に置かれた人の尊厳を守ることにあります。
教室は社会の最小単位の公共空間です。
そこにおける尊厳侵害を中心に据えられないなら、
人権運動の信頼はどこで担保されるのでしょうか。
結びに
いじめが中心争点になりにくい理由は確かに存在します。
しかし、それが続くことは当然ではありません。
問題は「なぜならないのか」ではなく、
「それでも中心に据える覚悟があるのか」です。
いじめは、理念の問題であると同時に、
優先順位の問題でもあります。
そしてその順位は、
社会の成熟度を映す鏡なのかもしれません。
※予告
なお、いじめのなかでも命に関わるような深刻な事案は、もはや単なる「教育問題」ではありません。
刑法上の違法行為に該当し得る重大な人権侵害です。
では、校則でスマートフォンの持ち込みや撮影が禁止されている場合でも、
いじめの証拠を確保するための録画は許されるのでしょうか。
そして、学校がその証拠の消去を命じたとき、
私たちはそれをどう考えるべきなのでしょうか。
次回は、
「いじめは犯罪になり得るのか」
「証拠保全は正当化されるのか」
という、より実務的で切実な論点に踏み込みます。

