「日の丸を嫌いな人もいる。その人たちに一方的に価値観を押し付けるのか?」
――高市総理が創設に意欲を示している国旗損壊罪をめぐる議論の中で、タレントのカンニング竹山氏が投げかけたこの問いは、一見すると多様性や個人の感情に寄り添う “優しい言葉” のように響きます。実際、SNS上でも「嫌いなものを嫌いと言う自由まで奪うのか」という声が広がりました。
しかし、この問いには重大な論点のすり替えがあります。
本記事では、「日の丸を嫌う自由」と「国旗を損壊する行為」をきちんと分けて考えながら、なぜ国旗損壊罪が “価値観の押し付け” ではなく、極めて常識的な法整備なのかを、一般の方にもわかりやすく解説します。
国旗損壊罪とは何か?まずは基本を整理
まず前提として確認しておきたいのは、国旗損壊罪は “日の丸を嫌うこと” を罰する法律ではないという点です。
法は「内心」を処罰しません。
法が対象にするのは、あくまで「外に現れた行為」です。
たとえば、あなたが日の丸を好きでなくても、批判的な意見を持っていても、それ自体は思想・良心の自由や表現の自由の範囲内です。ここは揺るぎません。
問題となるのは、「公然と国旗を物理的に損壊する行為」です。
ここを混同すると、議論は一気に感情論に流れてしまいます。
すでに存在する「外国国章損壊罪」との関係
ここで見落としてはならない重要なキーワードがあります。
それが、外国国章損壊罪(刑法92条)です。
現行法では、外国の国旗や国章を侮辱目的で損壊すれば処罰の対象になります。
つまり、日本の法律はすでに「他国の国旗」を守っているのです。
では、なぜ自国の国旗だけは公然と損壊しても処罰されないのでしょうか。
もし「嫌いな人もいるから損壊を認めるべきだ」という論理を徹底するなら、
外国の国旗についても同じ扱いにしなければなりません。
外国(例えば、少数民族に対する弾圧・迫害について国際社会から強い懸念が継続的に示されている国や、強い反日感情という歴史的社会背景の中で構成された歴史教育を実施している国)の国旗が嫌いな人の感情も尊重し、自由に破ってよい――そう言えるでしょうか。
多くの人は、そこには違和感を覚えるはずです。
つまり、現在の法体系は自国の象徴に対してだけ “空白” がある状態なのです。
国旗損壊罪は、この法的な非対称性を是正しようとする議論でもあります。
「嫌い」という感情は尊重される。しかし行為は別だ
「嫌い」という感情は誰にも止められません。
国家が心の中まで支配することは許されません。
しかし、「嫌いだから壊していい」という理屈が通るなら、社会は成り立たなくなります。
たとえば――
・信号機が嫌いだから壊していい?
・税金が嫌いだから納めなくていい?
・法律が気に入らないから破っていい?
もちろん違います。
私たちは、自分の感情とは切り離して、社会のルールに従うことで共同体を維持しています。これが文明社会の前提です。
国旗も同じです。
国旗は単なる布ではありません。
それは国家の象徴であり、国民全体を代表する記号です。
好きか嫌いかとは別次元の話なのです。
表現の自由と国旗損壊罪の関係
ここで「表現の自由」を持ち出す人もいます。
しかし、表現の自由も無制限ではありません。
名誉毀損や侮辱が一定の条件で処罰対象になるように、社会の秩序や公共の利益を守るための制限は存在します。
国旗損壊罪の議論も、まさにこの文脈です。
それは「思想統制」ではなく、「公共の象徴を物理的に破壊する行為をどう扱うか」という秩序の問題です。
ここを曖昧にし、「嫌いな人の気持ちを尊重しろ」という感情論で包んでしまうと、法理の土台が崩れます。
真の寛容とは何か
真の寛容とは、自分の感情を最優先にすることではありません。
自分が嫌いであっても、それが他者にとって大切なものであることを理解し、物理的な破壊を慎むことです。
これを「押し付け」と呼ぶなら、社会のあらゆるルールは押し付けになってしまいます。
むしろ、「自分が不快だからルールを変えろ」という発想こそが、他者への配慮を欠いた態度ではないでしょうか。
国旗損壊罪は “思想弾圧” ではない
改めて強調します。
国旗損壊罪は、日の丸を嫌うことを罰する法律ではありません。
・嫌う自由は守られる
・批判する自由も守られる
・しかし、公然と損壊する行為は禁じる
これは極めて常識的な線引きです。
むしろ、自国の国旗だけが無防備な状態にある現在の法体系の方が、国際的に見ても特殊です。
感情と法理を切り分ける冷静さを
私たちは今、「共感」という言葉に弱くなりすぎてはいないでしょうか。
共感は大切です。
しかし、法制度は共感だけで作るものではありません。
法は、社会全体の秩序を維持するためのルールです。
個人の主観的な感情を最上位に置いてしまえば、社会の基盤は揺らぎます。
国旗損壊罪の議論は、単なる国旗の問題ではありません。
それは、
・表現の自由とは何か
・法の下の平等とは何か
・共同体を支える最低限のルールとは何か
を問い直す議論なのです。
まとめ:嫌いでいる自由と、壊さない責任
日の丸を嫌う人がいる――それは事実でしょう。
しかし、だからといって損壊を容認する理由にはなりません。
嫌いでいる自由と、壊さない責任。
この二つを両立させることこそ、成熟した民主社会の姿です。
国旗損壊罪は、感情を罰する法律ではなく、行為を律する法律です。
この当たり前の区別を見失わないこと。
それが、感情の時代に生きる私たちに求められている冷静さではないでしょうか。
議論は歓迎です。
しかし、議論は論理の上で行われなければなりません。
「嫌いだから壊してもいい社会」か、
「嫌いでも壊さない社会」か。
私たちは今、その分岐点に立っています。
