先日、ある建築家がX(旧Twitter)に長文の投稿をされていました。
それは、2025大阪・関西万博のいわゆる「2億円トイレ騒動」について、自身の体験と重ねながら語った内容でした。
投稿の趣旨は、特定のタレントを批判することではなく、
「この社会が、誰もが “大衆による無意識の暴力” に晒され得る危うさを抱えているのではないか」
という、静かな警鐘でした。
問題となったのは、2025年の大阪・関西万博で設置された大型トイレ。
「2億円」という金額だけが切り取られ、「税金の無駄」「中抜きではないか」といった批判が一気に広がりました。
しかし建築家の説明によれば、そのトイレは便器数の多い大規模施設であり、平米単価で見れば特別に高額というわけではない、という事情もあるといいます。
それでも、
・万博開催への疑問
・能登震災後の社会的空気
・政治不信や対立
・「2億円」という強烈な数字
こうした要素が重なったとき、「これは叩くべき案件だ」という “分かりやすい物語” が一気に完成してしまう。
さらに、影響力のある著名人――たとえば田村淳氏のような存在が話題に触れれば、拡散は加速します。
それが意図的かどうかに関わらず、結果として一人の建築家に「悪人」というラベルが貼られていく。
投稿では、ついには「死んでしまえばいい」と本気で思い込む人まで現れる現実に触れ、強い危機感が示されていました。
私はその文章を読みながら、責任の所在を探すというよりも、「なぜ私たちはここまで速く、強く断定してしまうのだろう」と考えさせられました。
SNSは、声を届ける力を与えてくれました。
けれど同時に、怒りや違和感を “即断” へと変えてしまう装置でもあります。
「2億円」という数字は強い。
「税金」という言葉はもっと強い。
そこに「正義」という感覚が加われば、拡散ボタンは軽くなる。
でも、私たちは本当に十分な事実を見ているでしょうか。
それとも、わかりやすいストーリーに安心しているだけでしょうか。
万博は今後、「成功」として語られていくのかもしれません。
しかし、その過程で生まれた過剰な攻撃や極端な言葉までを、「結果オーライ」で包んでしまってよいとは思えません。
今回の建築家のポストは、弁明というよりも、
「次はあなたも同じ立場になるかもしれない」というメッセージのように感じました。
SNS時代に必要なのは、沈黙ではなく、慎重さ。
批判をやめることではなく、確認を怠らないこと。
強い言葉に出会ったとき、
拡散したくなったとき、
ほんの数秒、「他の情報はあるか」と立ち止まる。
それだけで、“無意識の暴力” は少し弱まるのかもしれません。
「大阪・関西万博2億円トイレ騒動」は、
単なる炎上事例ではなく、
私たちの情報リテラシーを問い直す出来事として記憶されるべきなのではないでしょうか。
