先日、テレビ番組「サンデーモーニング」における出演者の発言をめぐって、テレビ言論の劣化について考えざるを得ない出来事がありました。
番組の中で出演者は、
高市早苗氏を「日本人が古来から奉っているある動物に似ている」と暗示する発言を行いました。さらに、小池百合子東京都知事と並んだ写真についても触れながら、視聴者の想像に委ねる形で揶揄するような言い方をしました。
前回の記事では、この発言が政治評論としていかに低い水準のものであるかを指摘しました。
しかし問題は、それだけではありません。
より本質的な問題は、このような言論が「公共の電波」を使って全国に放送されているという点です。
テレビ放送は「公共の電波」を使用している
テレビ局は、自由に放送しているわけではありません。
日本では、電波は国民共有の資源とされており、放送局は国から免許を受けてその電波を使用しています。
そして、その基本的なルールを定めているのが
放送法
です。
放送法は、放送事業者に対して次のような原則を求めています。
・政治的に公平であること
・報道は事実をまげないですること
・意見が対立している問題については多くの角度から論点を明らかにすること
つまりテレビ放送は、本来、公共的な責任を伴う言論空間として制度設計されているのです。
これはSNSや個人ブログとは大きく異なります。
「言論の自由」と「公共性」のバランス
もちろん、テレビ出演者にも言論の自由があります。
しかし、公共の電波を使う以上、その言論には一定の公共性が求められます。
政治家を批判することは、民主主義社会では当然です。
しかし、人格を揶揄するような言い方や、暗示的な嘲笑によって印象操作を行うことは、公共的言論の役割とは言えません。
むしろそれは、議論ではなく感情的なレッテル貼りに近いものです。
テレビが社会的影響力の大きいメディアである以上、そこに出演する論者には、最低限の節度と知的責任が求められるはずです。
なぜテレビ言論は甘くなってしまうのか
ここで一つの疑問が浮かびます。
なぜテレビ番組では、このような発言が比較的容易に放送されてしまうのでしょうか。
理由の一つとして指摘されているのは、日本の放送制度の構造です。
日本では、主要な地上波テレビ局が
・長期の免許
・安定した広告収入
・限られた事業者による市場
という環境の中で運営されています。
その結果、テレビ局の内部では、外部からの批判に対する緊張感が弱くなりやすいとも言われています。
視聴者の信頼を常に意識して言論の質を高めるというより、
番組の雰囲気や出演者の発言に任せる形になってしまうことがあるのです。
問われているのはテレビ局の自律
もちろん、放送法を理由に政治権力がメディアに介入することは、極めて慎重であるべきです。言論の自由を守ることは、民主主義の基本だからです。
しかし同時に、テレビ局自身が
・公共の電波を使っているという自覚
・公共的言論の場であるという責任
を持たなければ、制度そのものへの信頼が揺らぎます。
もし視聴者の多くが
「テレビは好き勝手に政治的発言をしているだけではないか」
と感じるようになれば、テレビというメディア自体の信頼が失われてしまいます。
「テレビ離れ」の背景にあるもの
近年、若い世代を中心にテレビ離れが進んでいると言われています。
もちろん、その背景には
・インターネット動画の普及
・SNSによる情報発信
・視聴スタイルの変化
など様々な要因があります。
しかしもう一つ見逃せないのは、テレビ言論に対する信頼の低下です。
視聴者がテレビの言論に知的誠実さを感じなくなったとき、人々は別の情報源へと移っていきます。
今回の発言をめぐる問題は、そうした信頼低下の一端を示しているのかもしれません。
おわりに
テレビは、単なる娯楽メディアではありません。
公共の電波を使い、社会に大きな影響を与えるメディアです。
だからこそ、そこに登場する言論には、最低限の知的節度と責任が求められます。
人格的な揶揄や暗示的な嘲笑に頼る言論は、政治議論を深めるどころか、社会の議論の質そのものを下げてしまいます。
今回の問題をきっかけに、私たちは改めて問い直す必要があるのではないでしょうか。
公共の電波で語られる言葉は、本当に公共的な責任にふさわしいものなのか。
テレビというメディアの信頼を守るためにも、この問いは決して軽いものではないと思います。
