犯罪報道で被害者の実名は必要か?―「知る権利」とプライバシーの比較衡量から考える報道の限界

時代の一歩先

事件が起きるたびに、私たちはメディアを通じてその詳細を知ることになります。
でも、その中で当然のように報じられる「被害者の実名」に、疑問を抱いたことはないでしょうか。
なぜ、罪に問われる立場にない被害者が、名前や顔、人生の背景まで公にされなければならないのでしょうか。
そしてそれは、本当に「知る権利」の名のもとに正当化されるのでしょうか。
本稿では、犯罪報道における被害者実名報道の是非について、
感情論ではなく法的な比較衡量の観点から検討してみました。

「慣行」は正当化根拠になり得るのか

被害者の実名報道は、長年にわたり「当然のもの」として行われてきました。
けれども、その根拠を問われたとき、しばしば提示されるのは「これまでそうしてきたから」という説明にとどまっています。
でも、これは単なる事実の記述であって、正当化の理由にはなりません。
かつては、社会全体としてプライバシーの権利に対する認識が十分ではありませんでした。
その時代に形成された慣行が、現代においてもそのまま維持されるべき理由はないのです。
むしろ、権利意識が高度化した現在においては、
 過去の慣行は、一度立ち止まって検証されるべき対象
なのです。

「知る権利」はどこまでを含むのか

報道の自由は、「知る権利」を根拠として語られることが多いです。
けれども、この権利は無制限ではありません。
重要なのは次の点です。
 何を知ることが、民主社会にとって本当に必要なのか。
犯罪報道において、
・事件の発生
・犯罪の態様
・社会的影響
を知ることは確かに重要です。
しかし、そのために被害者の実名が不可欠かと問われれば、多くの場合、答えは否です。
したがって、
「知る権利」は、被害者の実名報道を当然に正当化する根拠にはならないのです。

比較衡量の視点―問われるべきは「不可欠性」

この問題の核心は、権利同士の比較衡量にあります。
すなわち、
報道の自由・知る権利

被害者のプライバシー権・人格権
の調整です。
ここで決定的に重要なのが、
 「その情報は不可欠か」という基準です。
もし、
実名でなくても報道目的が達成できるならば
実名によって重大な不利益が生じるならば
結論は明らかです。
 実名報道は正当化されない
この基準を採用するならば、帰結は必然的に
 原則匿名・例外実名
となります。

現代社会における「二次被害」の深刻化

この問題をより深刻にしているのが、現代の情報環境です。
かつてと異なり、現在では
・SNSによる瞬時の拡散
・個人特定の容易化
・半永久的な検索可能性
が存在します。
その結果、被害者は
・誹謗中傷
・私生活の暴露
・社会的評価の低下
といった深刻な二次被害にさらされるのです。
重要なのは、これらの被害が
 不可逆的であり、かつ長期間にわたり続く
という点です。
したがって、比較衡量においては、
被害者側の不利益は、従来よりもはるかに重く評価されなければならないのです。

例外はどこまで認められるのか

もちろん、すべてのケースで実名報道が否定されるわけではありません。
例外的に正当化され得るのは、例えば次のような場合です。
公的立場にある人物に関する事件
社会的影響が極めて大きい事案
捜査・安全確保のために必要な場合
本人や遺族が明確に公表を望む場合
しかし、これらはいずれも
「実名でなければならない理由」が具体的に説明できる場合に限られます

問われているのは報道のあり方そのもの

結局のところ、この問題は単なる報道技術の問題ではありません。
問われているのは、
 報道は、どこまで人の人生に踏み込んでよいのか
という根本的な倫理なのです。
被害者は、事件によってすでに大きな被害を受けています。
そのうえで、さらに社会的にさらされることが、本当に正当化されるのか。
その問いに対して、「慣行だから」「知る権利だから」と答えるだけでは、もはや不十分なのです。

結語

知られるべきは事件の本質であって、
晒されるべきは、被害者の人生ではない。

補論:日本弁護士連合会への提言―「人権の調整役」としての責務

本稿で論じてきた、被害者の実名報道をめぐる問題は、単なる報道慣行の是非にとどまりません。
それは、
・表現の自由(報道の自由)
・プライバシー権(人格権)
という、現代社会における典型的な人権衝突の問題です。

このような場面において、本来、社会に対して一定の指針を示す役割を担うべき存在があります。
それが、日本弁護士連合会(日弁連)です。
日弁連はこれまで、人権擁護の立場から数多くの声明や意見書を公表してきました。
その守備範囲は、刑事手続、個人情報、報道被害など多岐にわたります。
したがって、被害者の実名報道という問題についても、論点の性質上、その対象外であるとは考えにくいです。
にもかかわらず、この問題について、社会的議論をリードする形での明確な指針提示は、必ずしも十分とは言えないのが現状です。
その背景には、
・報道の自由との緊張関係
・組織内部の多様な意見
・国家規制への慎重姿勢
といった事情があることは理解できます。
しかし、本稿で検討したとおり、問題の核心は「報道の自由を制限するか否か」ではありません。
むしろ、
 いかなる場合に、被害者の人格権を優先すべきか
という、より基礎的な人権調整の問題です。
この点に関して、日弁連が沈黙を続けることは、「中立」であることを意味しません。
結果として、現行の慣行を追認することにつながりかねません。
だからこそ、今求められているのは、
 「原則匿名・例外実名」という方向性の是非について、
 人権擁護の観点から明確な問題提起を行うこと
です。
とりわけ、本稿で提示した「不可欠性基準」――すなわち、
 実名でなければ報道目的が達成できない場合に限り、例外的に実名報道を許容する
という考え方は、表現の自由と人格権のバランスを図るうえで、有力な指針となり得ます。
日弁連に求められているのは、報道を規制することではありません。
そうではなく、
 人権相互の適切な調整のあり方を、社会に対して提示することです。
被害者の尊厳と、社会の知る権利。
そのどちらも軽視しないためにこそ、専門家集団としての責務が問われています。

沈黙は中立ではありません。
人権が衝突する場面においてこそ、言葉を尽くすことが求められています。

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