はじめに:批判すらタブー視される風潮に違和感
「外国人による違法行為は見過ごすべきではない」「地域社会の秩序を守るために、毅然とした対応を取ってほしい」。こうしたごく常識的な声が、なぜかマスメディアでは「差別的」「排外的」と断じられるケースが後を絶ちません。
果たして、外国人の行為を正当に批判することさえも “差別” とされてしまう今の状況は、果たして健全と言えるのでしょうか?
本記事では、具体的な報道事例や判例をもとに、「差別」と「正当な批判」との境界線について考察するとともに、真の多文化共生に必要な視点について掘り下げていきます。
具体的な報道事例①:ベトナム人実習生による家畜窃盗事件(2020年)
2020年、群馬県でベトナム人技能実習生らが家畜を盗み、解体して食用にしていた事件が大きく報道されました。ネット上や地元住民の間では、「文化の違いでは済まされない」「日本の法は誰に対しても守られるべきだ」といった冷静で妥当な批判の声が上がりました。
しかし一部の全国紙では、これらの批判を「外国人差別が背景にある」とし、「異文化理解を進めるべきだ」と論じました。このような報道に対して、「違法行為への批判と差別を混同している」との反発も多く寄せられました。
この事例は、文化の違いを理解することと、違法行為を容認することの区別がつかないまま報道されてしまうことの危うさを示しています。
具体的な報道事例②:新大久保のデモと報道の限界(2013年)
2013年、新大久保駅前で行われた「反韓国デモ」は、過激なスローガンや差別的な発言が含まれていたことから、大きな社会問題となりました。この出来事は、2016年に成立した「ヘイトスピーチ解消法」の議論にも影響を与えました。
しかし、同時に「不法滞在者の増加」や「生活保護の不正受給」など、制度の不備や行政対応の遅れに対する住民の疑問や批判の声までもが、メディアによって一括して「ヘイト」「排外主義」と断じられた点には、大きな疑問が残ります。
民主社会において制度や政策への批判は本来自由であるべきであり、それまで封じてしまう風潮は、言論の萎縮と分断を生む原因となり得ます。
「差別」と「合理的区別」の違いとは──憲法と判例から考える
日本国憲法第14条は、「すべて国民は法の下に平等である」と定めています。しかし判例では、「合理的な理由に基づく区別」は憲法上許容されるとされており、「差別」と「区別」は明確に区別されています。
たとえば、平成14年の「東京都管理職昇任差別訴訟」では、性別を理由とした処遇の違いが、「合理的な区別」か「不当な差別」かが争点となり、裁判所はその線引きを明示しました。
同じように、外国人に対する在留管理や福祉制度の適用範囲の制限などは、国家の制度維持や治安確保の観点から「合理的区別」として法的に認められてきました。それにもかかわらず、メディアがこれを一律に「差別」と断定するのは、法的な理解を欠いた報道姿勢といえるでしょう。
なぜマスコミはこう報じるのか?──報道姿勢に潜む構造的な偏り
●「人権」「共生」重視が行き過ぎると………
多くのメディアは、国際的な人権感覚や多文化主義の理念を前面に掲げています。本来、これは尊重されるべき立場ですが、それが過度になると、違法行為や制度的問題に対する冷静な批判までもが「差別的」と処理されてしまいがちです。
背景には、“人権に配慮するメディア” としての立場を明示しようとする報道の自己演出的な側面も見え隠れします。
●都市部中心の報道と地方住民の実感の乖離
大手メディアの多くは、東京や大阪など都市部に本社や報道拠点を持ち、記者や編集者も都市圏で暮らす人が大半です。そうした中で、現場で外国人との摩擦や制度の矛盾を経験することが多い地方の住民の声は、報道現場で反映されにくくなる構造的な問題があります。
もちろん、都市部の住民にも保守的な人、リベラルな人、さまざまな立場の人が共に暮らしており、一概に「都市=リベラル」とするのは正確ではありません。しかし、報道現場では理念的な視点が優先される傾向があり、これが結果として現実的な課題の報道を希薄にしてしまっているのです。
外国人との共生を進めるために必要な「本当の寛容」
「共生」とは、問題を見て見ぬふりをすることでも、文化的違いを無条件に美化することでもありません。
真の多文化共生とは、「見て見ぬふり」でも「美化」でもなく、「公平なルールと相互の尊重」によって成り立つものです。
国籍を問わず、誰であっても違法行為や社会秩序を乱す行為には毅然とした対応をとることが、結果としてまじめに暮らす外国人にとっても安心できる社会づくりにつながります。
共生とは「違いを無条件に受け入れる」ことではなく、「ルールを共有したうえで信頼を築く関係」です。その前提を見失ってしまっては、多様性はただの混乱になってしまいます。
おわりに:偏った報道に惑わされず、事実を見る力を
社会の多様化が進む今だからこそ、「差別」と「正当な批判」を区別し、公平な目で事実を見つめることが求められています。外国人による違法行為への指摘が、すぐに「ヘイトだ」「排外主義だ」と片付けられてしまう今の状況には、マスコミ報道の在り方にも大きな責任があると言えるでしょう。
真の多文化共生とは、「見て見ぬふり」や「理想の押しつけ」ではなく、ルールの共有と互いの尊重のうえに築かれるものです。私たち一人ひとりが、報道に流されるのではなく、自分の目で事実を見極め、声を上げていくことこそが、分断のない成熟した社会への第一歩となるはずです。