はじめに
「ジェンダーフリー」や「多様性の尊重」といった言葉は、近年ますます日常の中に浸透し、多くの人が「性別に縛られない社会」を望むようになりました。
しかし、ふと立ち止まって考えたときに、次のような疑問を感じたことはないでしょうか。
「男らしくありたい」と願う男性や、「女らしく振る舞いたい」と思う女性までが、どこか時代遅れだと見なされていないか?
もしそうであるならば、それは “本当の多様性” とは言えないのではないでしょうか。
本稿では、ジェンダーフリー推進の中で見落とされがちな「逆の偏見」や「選択の自由の矛盾」について深掘りし、多様性の本質を問い直します。
ジェンダーフリーは「性別役割の強制」を否定する考え方
まず確認しておきたいのは、「ジェンダーフリー」とは本来、「すべての人に中性的であることを求める」思想ではありません。
本質的には、
●男性だから○○すべき
●女性だから○○すべき
といった、性別による固定観念や役割の押し付けをやめよう、というのが出発点です。
つまり、「女だから家事・育児をして当然」「男だから感情を抑えて働き続けるべき」といった圧力を解消しようという社会的な取り組みなのです。
ところが現実には、「男らしさ」「女らしさ」そのものが否定されていないか?
しかし、近年の一部のジェンダー論や表現の中では、「男らしさ」「女らしさ」という言葉自体が否定的に扱われる傾向が強くなっています。
たとえば:
●「男が泣くのはダメだ」という価値観は確かに時代遅れですが、
●「強くありたい」と思う男性の感情まで「男らしさの呪縛」として見られることがある。
あるいは、
●「フェミニンな装いを好む女性」が「自己肯定感が低いからでは」と、批判的に捉えられるようなケースも。
これはつまり、「古い性役割に反発するあまり、新しい “中性であるべき” という別の型にはめようとしていないか?」という懸念です。
本来、多様性とは「選べる」こと。従来型の価値観を選ぶ自由もまた、等しく守られるべきなのです。
真の多様性とは、「生き方を選ぶ自由」がすべての人にあること
「男らしくありたい人」も「男らしさから自由になりたい人」も、どちらも尊重される。
「女らしく生きたい人」も「性別に縛られたくない人」も、自分で選び取れる。
これこそが、本来の意味での多様性であり、ジェンダーフリーの理想であるはずです。
しかし現実には、
●「男らしさ」や「女らしさ」に親しみを持つ人が「時代遅れ」「差別的」だと批判される
●「伝統的な役割分担を望む」家庭が、後ろめたさを感じさせられる
といった “新しいかたちの抑圧” が生じつつあります。
「思想の一元化」への警鐘
多様性や自由を掲げる運動の中で、特定の価値観だけが “正しい” とされ、それ以外の意見が排除されるようになると、それはもはや “自由” ではありません。
たとえば、「LGBTQ+への配慮が必要だ」という声は当然大切ですが、それと同時に「伝統的な価値観に共感する人」や「宗教的な立場から異なる意見を持つ人」の存在も尊重されなければならないはずです。
本当の意味での「共生」とは、異なる考えの人々が “互いの違いを否定せず” 共に存在できることです。
おわりに:多様性とは、“好きにしていい” ことではなく、“違いを認め合う” こと
「男らしく生きたい」と願う人を笑う社会も、
「女らしく装いたい」と願う人を見下す社会も、
「性別に縛られたくない」と訴える人を無視する社会も――
いずれも “多様性のある社会” とは言えません。
「ジェンダー平等」や「ジェンダーフリー」を語るうえで、私たちは改めてこの問いに向き合う必要があります。
「それは本当に “誰もが自由に選べる社会” になっているのか?」
問い続けることこそが、多様性の名のもとに新たな偏見が生まれないための第一歩なのです。