「共生」の名のもとに声を封じる社会へ――理想と現実のギャップを直視しよう

はじめに:「共生」という言葉に違和感を覚えたことはありませんか?

「多文化共生」「多様性の尊重」――これらの言葉は、今や政治家、マスコミ、教育現場などあらゆる場所で当然のように語られています。「違いを受け入れ、共に生きること」は美しい理想であり、聞こえの良いスローガンです。

しかし、いま日本や欧州で起きている現実を見つめ直すと、この「共生」という言葉が、ある種の “呪文” のように機能し、人々の口を封じ、現実の問題提起すらタブーにしてしまっている側面があることに気づきます。

たとえば欧州では、移民受け入れ政策のもとに「共生」が進められた結果、治安悪化や社会的摩擦が起きたという報告が相次いでいます。にもかかわらず、こうした問題を語ろうとすると「排外主義」「差別主義者」と批判され、冷静な議論すら難しくなるのが現状です。

このような「共生の名を借りた同調圧力」は、真に多様で自由な社会とは言えません
今回は、理想としての共生と、現実における “偽の共生” とのギャップについて、私たちが考えるべき視点を整理します

「共生」は間違っていない――だが、誤用と悪用が問題を生む

まず確認しておきたいのは、「共生」という理念そのものが悪ではないということです。
異なる文化的背景や価値観を持つ人々が、互いに理解と尊重の精神を持って共に暮らすことは、人間社会において重要な目標です。

しかし問題は、その理念を実現するための現実的な制度設計や配慮が伴っていないまま、「共生ありき」の姿勢が先行し、現地の人々の生活や価値観が一方的に犠牲にされているという点にあります。

たとえばスウェーデンでは、急速な移民受け入れ政策によって一部地域でギャング犯罪や銃撃事件が多発し、社会不安が拡大しています。スウェーデン警察庁の統計によると、2023年だけで犯罪組織による発砲事件は300件を超えました。これらの地域では、警察が自由に入れない「ノー・ゴーゾーン」が存在するとすら言われています。

こうした事例に対して、「共生が間違っていた」と捉える人が出てくるのは当然です。しかし本質は、「共生」という理想が現実と乖離し、しかもその問題点を指摘する声が封じられているところにあります。

「ヘイト」と「正当な問題提起」の境界があいまいになっている

もうひとつの重大な問題は、「ヘイトスピーチ」と「正当な問題提起」の境界線が極めてあいまいになっていることです。

たとえば、日本でも外国人犯罪や治安の悪化について言及すると、それだけで「レイシスト」「差別主義者」とレッテルを貼られるケースがあります。しかし、法を犯した事実や制度的な課題を議論することは、健全な民主社会における当然の営みです。

2016年に施行された「ヘイトスピーチ解消法」も、理念法であるため定義が曖昧で、自治体レベルではガイドラインが独自に拡大解釈される傾向があります。これにより、「不快に感じる発言はすべてヘイト」というような感情優先の対応がまかり通ることもあります。

このように、“批判と差別を混同する風潮 が広がると、社会全体が萎縮し、本来必要な議論すら忌避されてしまうのです。

「多様性」とは、意見や価値観の違いを受け入れること

「多様性の尊重」という言葉も、時に便利な道具として利用されます。
本来、多様性とは「見た目の違い」や「文化的背景」だけではなく、「意見の違い」「思想の違い」をも包摂するものでなければなりません。

しかし現代では、“正しい多様性” という一つの枠に収めようとする動きが強まり、保守的な考え方や伝統的価値観に基づいた主張は排除の対象とされがちです。これは実質的に「偽の多様性」であり、逆に分断を深めてしまいます。

自由な社会に必要なのは、異なる意見が並存できる土壌です。相手と同じでなければならないという圧力ではなく、違っていても共にいる」という姿勢こそが、本当の共生の土台になります。

「共生」を本気で目指すなら、私たちが持つべき視点

共生社会を真に実現するためには、理想をただ叫ぶのではなく、以下のような現実的な視点を持つことが必要です。

● 現実を直視する勇気
現場の実情や統計、事件の背景を冷静に把握する力が求められます。イメージではなく、データと証拠に基づいて議論しましょう。
 異論を封じない態度
「共生」や「寛容」を盾に、他者の発言を封じることこそ不寛容です異なる意見を聞く姿勢が、多様な社会の基盤になります。
● 制度と価値観の整合性を考える
移民政策、教育制度、地域行政は、それぞれの地域や文化に合わせた柔軟な制度設計が必要です。上から押しつけるだけでは、真の共生にはなりません。

おわりに:「美しい言葉」に惑わされず、自分の感覚を大切に

「共生」は素晴らしい理想です。しかし、それを疑うことなく信じることが “善” とされ、異論が排除される社会は、むしろ不寛容で閉鎖的です

大切なのは表面的なスローガンに惑わされず、「本当にそれが正義なのか」「誰かの自由や安全が犠牲になっていないか」を常に問い続けることです。
そして、自分の言葉で語り、自分の感覚で考える勇気を持つこと。これが、共生という理想を本当に実現する第一歩になるのです。

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