はじめに
「リベラル」という言葉を聞くと、あなたはどんなイメージを抱くでしょうか? 自由・人権・平等――本来は民主主義社会の根幹をなす価値を指すこの言葉が、今の日本では時に「反体制」や「反国家的姿勢」と混同され、さらには特定の思想勢力によって “擬態” されているという指摘もあります。本記事では、日本と欧米の「リベラル」の使われ方の違いをたどりつつ、日本社会におけるその “変質” とリスクについて掘り下げてみましょう。
リベラルの語源と原義
「リベラル(liberal)」はラテン語の「liber(自由)」に由来し、本来は「自由を重んじる」という意味です。18~19世紀のヨーロッパでは、絶対王政や専制政治に対抗して、個人の自由・言論の自由・経済活動の自由(自由貿易)を尊重する古典的自由主義(クラシカル・リベラリズム)の立場を「リベラル」と呼びました。
欧米における現代の「リベラル」の使い方
アメリカ合衆国
現代のアメリカでは「liberal」は一般に左派寄りの立場を指し、進歩主義(プログレッシブ)と重なる部分もあります。特徴としては、福祉国家の推進、人種・ジェンダー平等、LGBTQ+の権利擁護、環境保護、多文化主義への支持が挙げられます。ただし、経済面では「自由市場」よりも政府の規制強化を支持する傾向が強い点で、古典的リベラリズムとは異なります。
グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(英国)
かつての自由党(Liberal Party)の流れをくむ自由民主党(Liberal Democrats)は、中道の立場で、個人の自由と社会的公正のバランスを掲げています。保守党と労働党の中間的な位置にあり、温和な福祉政策が特徴です。
ドイツ連邦共和国、フランス共和国
ドイツの自由民主党(FDP)は、経済自由主義に軸足を置いた中道右派政党で、アメリカのリベラル左派とは異なります。
フランスでも「リベラル」は新自由主義(ネオリベラリズム)的な意味合いで使われることが多く、左派からはしばしば警戒されます。
日本における「リベラル」の意味の混乱
日本では戦後、「リベラル」は保守と対置される政治的進歩派(革新)を指す語として定着しました。旧・日本社会党や日本共産党系の知識人、護憲派などが「リベラル」と呼ばれましたが、内容を見ると必ずしも自由を尊重する立場とは言い難く、むしろ集団主義的、統制志向的、反市場的な側面が混在しています。
特に以下のような特徴が、日本型リベラルの「独自性」として顕著です:
○憲法改正(特に9条)への根強い反対
○経済面での新自由主義への批判
○欧米的な「個人の自由」よりも、「反体制」や「反権力」的スタンスが強調されがち
日本の「リベラル」に見られる “擬態” の問題
近年、日本における「リベラル」の一部には、欧米的自由主義とは異なる性質が目立ちます。以下のような傾向は、もはや自由主義というよりも、反国家的アクティビズムや偽装的グローバリズムと呼ぶべきものかもしれません。
○日本の国家主権や安全保障に対して過度に否定的
○歴史認識において自国を一方的に断罪し、外交的な立場を不利にする主張を展開
○周辺諸国の政治的プロパガンダに共鳴、または追随する傾向
○日本の文化的・道徳的伝統を敵視
○特定の国際ネットワークや、帰化・外国系の政治アクティビストとの連携によって、日本国民よりも他国や他民族への「配慮」を優先する傾向
こうした動向は、「自由」という言葉を装いつつ、実質的には日本社会の基盤を脅かす可能性を内包しており、リベラリズム本来の価値とは相容れないものです。
なぜこうなったのか?──戦後思想と情報空間のゆがみ
このような「擬似リベラル」現象の背景には、次のような要因が考えられます。
①戦後の教育とメディア文化による “自虐史観” の定着
国家や自衛の概念を「悪」とする価値観が長く温存され、それが正義であるかのように教えられてきた。
②国際的な思想潮流や外国勢力の影響
グローバリズムの名の下に、国境や主権という概念を相対化し、日本の立場を内側から弱めようとする論調が入り込んでいる。
③特定の外国系団体や帰化人による政治的アクション
マイノリティ支援の名目で、実際には日本社会や制度に対して敵対的な運動を展開する例もある。
本当の「自由主義」とは何か
真のリベラリズムは、単なる反体制ではありません。それは個人の自由を守ることと、秩序と責任を両立させるバランスの上に立つ知的態度です。
○国家の制度や法を尊重しながら、少数者の権利も守る
○言論の自由と同時に、社会秩序や公共性にも責任を持つ
○自国に対しても他国に対しても、公平な視点を忘れない
こうした本来の理念が、現在の日本においてはしばしば歪められ、「体制批判=正義」「日本批判=知性」といった短絡的思考に置き換わっていることが問題です。
結びにかえて
「リベラル」という言葉が、自由の名のもとに国家を弱体化させる隠れ蓑となるなら、それは民主主義にとっても自由社会にとっても重大な危機です。
だからこそ今、私たちは見極めなければなりません。
「誰が本当に「自由と責任」を尊重しているのか?」
そして
「誰がその名を利用して、日本という国の基盤を内側から侵食しているのか?」
を。