はじめに
2025年に高市内閣が発足して以降、日本と中国の間では再び外交的な緊張が見られるようになりました。中国政府は、日本の対中姿勢を牽制する目的で、サンフランシスコ平和条約(正式名称「日本国との平和条約」)の正当性そのものに疑問を投げかける、強い調子の発言を繰り返しています。
しかし、このように歴史問題が外交カードとして持ち出されることは、東アジアでは決して珍しい現象ではなく、国際政治の駆け引きの一部として理解することが必要です。
この種の言説に触れると、私たちはしばしば感情的に反応しがちです。過度に警戒したり、逆に強い反発を覚えたりすることもあります。しかし、そうした情緒的な反応こそが、当事者の政治的意図に取り込まれる危険をはらんでいます。
中国側の主張は、法的根拠が乏しい政治的カードである一方で、地域秩序を揺さぶる戦略的メッセージでもあります。
だからこそ重要なのは、感情ではなく事実に基づいて状況を捉え、国際政治の文脈の中でその意味を冷静に評価する態度です。
本稿では、この問題に関する歴史的経緯や国際法上の論点を整理しつつ、中国の言動が持つ政治的・戦略的効果、そして日本がどのように賢明に対応すべきかを考えていきます。外交の世界では、強い言葉がそのまま強い立場につながるわけではありません。むしろ、冷静で的確な分析こそが、日本の国益を守るうえで最初の一歩となるのです。
事実関係の基礎
●1942年の「連合国共同宣言(United Nations Declaration)」の当事国は「中華民国」
太平洋戦争中、米・英・ソと共に日本と交戦状態にあったのは、中華民国(Republic of China:ROC)である。
中華人民共和国(People’s Republic ofChina:PRC)はまだ存在していない。
●1945年の国際連合創設:安全保障理事会常任理事国となったのも「中華民国」
国際連合の原加盟国・常任理事国(いわゆる五大国)として議席を得たのは中華民国(ROC)であり、中華人民共和国(PRC)は1949年に成立した後、当初は国連に加盟していない。
●1971年の国連総会決議2758号
中国の代表権をROCからPRCに「切り替えた」にすぎず、
PRCを1945年当時の「中国の継承国家」と認定したわけではない。
この決議は純粋に「国連における議席をどちらが占めるか」を決めた政治決定であり、歴史の遡及的判断ではない。
サンフランシスコ平和条約と中国
●1951年、ROC(中華民国)も会議に招待されていた
しかし朝鮮戦争の開戦と中ソブロックの形成により、冷戦構造の中で中国代表権問題が政治化し、最終的にROCは参加できなかった。
●しかし、【「招待されなかった」=「条約が不法で無効」】にはならない
国際条約の有効性は、
・正当な当事国間で署名・批准されているか
・手続きに致命的な瑕疵があるか
によって決まり、「すべての関係国が必ず条約に出席していなければ無効」というルールは存在しない。
●ROCは1952年に日華平和条約を締結
これにより、ROCと日本間の二国間講和は正式に成立している。
PRCの「無効論」が抱える矛盾
PRCが
「中国が参加していない条約は無効だ」
と主張するならば、以下の矛盾を抱えます。
①1943年のカイロ宣言・1945年のポツダム宣言
いずれも当時の「中国」は中華民国(ROC)であり、中華人民共和国(PRC)はまだ存在していない。
PRCが「当時の中国(ROC)の地位を自動的に継承した」と主張するならば、「サンフランシスコ平和条約だけ継承を拒む」という論理は成立しない。
②PRC自身が国連2758号を“都合よく”利用
2758号は「中国代表権の切替」を決めただけであり、
「PRCが1930〜40年代の中国を遡及的に代表する」と明記されてはいない。
にもかかわらず、PRCは政治的目的に応じて
「我々は歴史的中国を継承した」
「しかし自分が気に食わない条約は継承しない」
と使い分けている。
③PRCが「台湾は中国の一部」と主張するなら、ROCが当時締結した外交行為(条約)を否定できない
PRCがROCを「国家ではない」と主張するほど、台湾関係条約・外交行為を否定したい政治意図が透ける。
国際法上の位置づけ
●PRCの「条約無効」主張は、国際法上自動的・即時に効力は持たない
条約法条約(ウィーン条約)に基づいても、国家が一方的に「無効」と宣言しても、他国がそれを認めない限り条約の法的効力は揺るがない。
●したがって、これは法的主張というより「政治的宣伝」
国際社会の大半はサンフランシスコ平和条約を戦後秩序の基盤として承認しています。
PRCの主張は、国際法の枠組みというより、国内政治と対日心理戦の側面が強いのです。
歴史的検証:PRC主張の論理的断絶
歴史文書と国際法上の事実に基づいて検証すると、今回の中国(中華人民共和国:PRC)の主張には、いくつもの論理的断絶が存在します。
とりわけ、1942年の連合国共同宣言や1945年の国際連合創設時に「中国」を代表していたのは中華民国(ROC)であり、中華人民共和国(PRC)は当時まだ成立していませんでした。1971年の国連総会決議2758号も、あくまで「国連における代表権の交替」を決定しただけで、PRCを “1945年時点へ遡る継承国家” として認定したものではありません。
こうした歴史的・法理的事実を踏まえると、PRCによる「サンフランシスコ平和条約は無効」という主張は、国際法・国際慣習法のいずれから見ても正当性を欠いていると言わざるを得ません。
このように、歴史的整合性と国際法の観点からPRC主張が成立困難であることが確認できる点は、次章で述べる国際社会の反応を理解する前提として不可欠です。
国際社会の反応:法的評価と政治的リアリズム
上記の歴史的検証を踏まえ、国際社会の反応は概ね冷静です。
多くの国にとって、サンフランシスコ平和条約は東アジアの戦後秩序を定めた基幹条約であり、特定国家の一方的な「無効」宣言で事後的に覆される性質のものではありません。
ただし、国際政治にはもうひとつの側面――政治的リアリズム――があります。
ここで重要なのは、PRCが提出した主張が “法的に成立し得るかどうか” と、“外交カードとして機能するかどうか” は別問題だということです。
PRCは核大国であり、国連の安全保障理事会の常任理事国でもあるため、政治的インパクトを伴う表明をするだけで、一定の緊張感や議論を国際社会に生じさせる力を持っています。
しかし、実務においては各国とも、
・サンフランシスコ体制の法的安定性
・アメリカを中心とした戦後秩序の継続性
・台湾問題をめぐる現状維持政策
を重視しているため、PRCの表明を直ちに国際法的再評価へ結びつける動きは見られません。
この「法的安定性への重視」という姿勢は、次の結論部分へ自然につながるポイントとなります。
結論:冷静・一貫・戦略的な対応の必要性
以上のように、PRCの主張は歴史的・法的に整合性を欠いており、国際社会もその点を冷静に踏まえて対応しています。それでも、政治的リアリズムの観点では、PRCが強硬な表明を繰り返すことで一定の緊張が派生し、東アジアの戦略環境を不必要に複雑化させていることは否めません。
したがって、日本としては、こうした状況に過度に振り回されるのではなく、国際法に立脚した透明で一貫性のある外交姿勢を堅持することが求められます。
今回の問題は、“日本の対応次第で情勢がこじれる” という種類のものではなく、むしろ、PRCの主張の法的正当性そのものが国際社会の評価の中心に置かれています。日本がすべきことは、歴史的事実と国際法の原則を丁寧に示し続けることで、国際社会の理解を確保し、地域の安定に寄与することです。
つまり、感情的な反発や萎縮した譲歩ではなく、冷静・論理的かつ戦略的な対応こそが、国際社会の中で最も信頼される道であり、日本の利益と地域の秩序維持の双方に資するものです。
学術的注釈(Academic Notes)
注1:1942年「連合国共同宣言」(United Nations Declaration)について
この宣言は日独伊など枢軸国に対抗する26か国が署名した戦時連合の基盤であり、署名国の「China」は中華民国政府を指す。当時、共産党政権(PRC)は存在せず、戦争当事国は中華民国(ROC)のみである。
注2:1945年国連憲章における「中国(China)」
国連憲章の原署名国として記載された「China」は中華民国(ROC)であり、憲章第23条(安全保障理事会常任理事国)もROCを指す。中華人民共和国(PRC)は1949年の建国以降、国連に加盟していない時期が続いた。
注3:1971年国連総会決議2758号の性質
本決議は「中国の代表権(the representatives of China)」をROCからPRCに移す政治決定であり、1945年時点の「中国」概念を遡及的に再定義したものではない。学界でも、2758号を国家承認や歴史的継承の判断とみなす解釈は一般的ではない(cf.M.Shaw,International Law,8thed.,2017,p.438)。
注4:サンフランシスコ平和条約(1951年)の当事国問題
中華民国が署名国に含まれなかったのは、朝鮮戦争に伴う冷戦構造の再編が影響した政治的判断であり、国際法上「中国が参加していないから無効」とする論理は支持されない。条約法条約(Vienna Convention on the Law of Treaties)でも「特定国が不参加=条約無効」とする規定は存在しない。
注5:1952年日華平和条約の位置づけ
日本と中華民国間の講和は、サンフランシスコ平和条約を補完する形で二国間条約として成立し、これにより日本とROCの戦争状態は正式に終了した。したがって、ROCは事後的に講和プロセスに参加したことになる。PRCは同条約の法的地位を否定しているが、これは「一つの中国」政策に依拠した政治的判断である。
注6:PRCの「条約無効」主張と国際法
国家が国際条約の無効を主張する場合、条約法条約第46条以下に基づく手続きが必要であり、一方的宣言によって直ちに条約効力が失われるわけではない。PRCの主張は、国際法的効果よりも外交的・宣伝的意図が強いと評価されている。
注7:台湾の地位問題とサンフランシスコ平和条約
サンフランシスコ平和条約は台湾の最終帰属を明示しておらず、日本は「放棄した」と規定されているだけである(第2条b)。このため、一部の国際法学者は「台湾地位未定論」を唱えているが、実務上は米国を含む各国の政策判断が優先している。PRCのサンフランシスコ平和条約否定は、かえってこの議論を活性化させ得る。
注8:PRCの戦略的リスク(諸刃の剣)
PRCが戦後秩序の根幹を否定する言説を強調することは、米国や日本に対し「サンフランシスコ平和条約体制の再解釈」を可能にし、台湾の地位に関する柔軟な政策運用を正当化する余地を与える。これは中国の長期的国益と矛盾する可能性がある。
