日本で子どもを持てない社会で、移民は答えになるのか?--「移民か、日本人か」という二択を、そろそろ終わらせよう

移民政策について議論するとき、世の中ではしばしば、
「外国人を受け入れるか、排除するか」
「多文化共生か、排外主義か」
という極端な二択で語られがちです。

しかし、本当に考えるべきことは、そこではありません。

多くの若い日本人が感じているのは、
「結婚や子育てをしたい気持ちはあるのに、経済的にも時間的にも余裕がない」
という、非常に現実的な不安です。

この不安が解消されない社会で、
「人口が減るから外国人を受け入れます」
と言われても、素直に納得できないのは当然ではないでしょうか。

日本人が子どもを持てない社会で、誰が安心して子どもを持てるのか?!

日本人の若者ですら、
・不安定な雇用
・低い賃金
・高い家賃や教育費
・長時間労働

といった壁にぶつかっています。

移民として日本に来る人たちも、
このような日本社会で「永住し、生活する」のであれば
結局は同じ条件の中で生きることになります。

つまり、
日本人が子育てできない社会では、
外国人もまた子育てしにくい社会
なのです。
移民を受け入れれば少子化が解決する、という発想は、
現実をあまりにも単純化しています。

なぜ「外国人優遇」に見えてしまうのか?

行政が外国人向けに行う支援策には、
社会の混乱を防ぐために必要なものも確かにあります。

しかし問題は、
日本人の若者への支援が十分でないまま、外国人向け政策だけが目立つことです。
この状態で、
「多文化共生のためです」
「外国人に選ばれる国になるためです」
と言われれば、
「その税金、まず日本で生きる若者のために使うべきでは?」
という疑問が生まれるのは、極めて自然なことです。

これは外国人への敵意ではなく、
政治や行政への不信なのです。

本当に必要なのは「順番」の話です!

この問題の本質は、
「移民を受け入れるかどうか」ではありません。

大切なのは、順番です。
まずやるべきなのは、
・日本で生まれ育った若者が
・働けば生活でき
・結婚や子育てを現実的に考えられる社会をつくること

です。

その土台を整えずに、
移民だけを人口減少対策の切り札のように扱うのは、
あまりに無責任だと言わざるを得ません。

移民政策は「限定的で補助的」な手段であるべき

それでも、すぐに人口減少が止まらない以上、
一部の分野で外国人の力を借りることが現実的に必要な場面もあります。

だからこそ、
・業種や職種を厳選し
・人数を管理し
・受け入れ体制を先に整え
・社会への適応と責任を明確にする

という、節度ある移民政策が求められます。

移民は「魔法の解決策」ではありません。
あくまで補助的で時限的な手段に位置づけるべきです。

若い世代こそ、この問題の当事者です

この先の日本社会で、
・働き続けるのは誰か
・税金を負担するのは誰か
・家庭を築こうとするのは誰か
それを担うのは、今の若い世代の皆さんです。

だからこそ、
「移民か、日本人か」という雑な対立に巻き込まれず、
「どんな社会を、どんな順番でつくるのか」を考える必要があります。

多文化共生とは、誰かを後回しにすることではありません。
日本で生きるすべての人が、立場にかかわらず、無理のない形で責任を分かち合い、
日本社会のルールを前提に、在留外国人との共生を考えていくことです。

その出発点に、
日本人の若者の暮らしが置かれていなければならない
――
私はそう考えます。

補論

①「限定的な移民政策」だからこそ、有権者の監視が欠かせない
移民政策は、あくまで人口減少への限定的で補助的な手段であるべきだと述べてきました。
この点は、移民政策に限らず、すべての大規模政策に共通する重要な視点でもあります。
一般に、投入される予算規模が大きい政策ほど、利権が生まれやすいという現実があります。
それは、特定の業界、団体、企業、あるいは行政組織に、
お金と権限が集中しやすくなるからです。
移民政策も例外ではありません
受け入れ事業、研修、斡旋、日本語教育、生活支援――
その一つ一つに公的資金が使われます。
だからこそ、
「本当に必要な規模なのか
「誰のための政策になっているのか?」
を、常にチェックする目が必要
になります。

②政治を監視できるのは、私たち有権者だけです
政治や行政は、自然に良くなるものではありません。
見られているときにしか、緊張しないのが現実です。

特に、移民政策のように、
・理念が先行しやすく
・専門用語が多く
・実態が見えにくい分野ほど
有権者の無関心は、都合よく利用されてしまいます

③選挙で「投票しない」は、中立ではありません
若い世代の中には、
「誰に投票しても変わらない」
「政治はよく分からない」
と感じている人も多いと思います。
しかし、投票しないという選択は、中立ではありません。
それは、
「誰が何を決めても構いません」
と、白紙委任することと同じです。
投票は、完璧な賛成を示す行為ではありません。
「少なくとも、これは違う」
「まだマシだと思える選択肢を選ぶ」
それだけでも、政治にとっては大きなプレッシャーになります。

④この国の “これから” に関わるのは、今の若者です
移民政策の影響を長く受けるのは、
これから何十年も日本で働き、暮らしていく若い世代です。
だからこそ、
・考えること
・監視すること
・そして、最低限、投票に行くこと
これは「政治好きな人」の義務ではなく、
自分の人生を守るための行動だと思います。
移民政策をめぐる議論も、
多文化共生という言葉も、
最終的に責任を引き受けるのは、私たち自身なのです。

付録:用語注記 ― 政府文書における「多文化共生」「外国人との共生社会」

本記事では「多文化」「共生」「包摂」という言葉を用いて議論しましたが、これらの言葉は使われ方によって意味が変わることがあり、理解を共有するために整理しておきます。以下は、政府・自治体の公的な文書での定義・使われ方に基づく注記です。

■ 多文化(multicultural)
政府の政策文書でも広く使われる語ですが、理念としての定義は明確な法律用語ではありません。
総務省の研究会報告では、
国籍や民族などの異なる人々が、互いの文化的ちがいを認め合い、対等な関係を築こうとしながら、地域社会の構成員として共に生きていくこと
(総務省『多文化共生の推進に関する研究会報告書』より)
と説明されています。
これは、単に文化が混在するという事実以上に、「互いの違いを認め合う努力」と「共通のルールのもとで暮らす姿勢」を重視した定義です。

■ 共生(coexistence)
「共生」は、単に複数の文化が同じ社会に存在する状態を指す言葉ではなく、異なる背景を持つ人々が関係を保ちながら生活することを意味します。
総務省の定義を踏まえると、「共生」とは
・一方的に特別扱いすることではなく
・互いを尊重しながら
・日常生活のルールのもとで関係を築くこと
を含意しています。

■ 包摂(inclusion)
「包摂」とは、本来、社会の中で排除せずに含めていくこと、という意味です。
政府の『外国人との共生社会の実現に向けたロードマップ』でも、
外国人が安全・安心に暮らせる環境を整えるというビジョンが掲げられています。
このロードマップでは、
・全ての人が安心して暮らせる社会
・多様な背景を持つ全ての人が能力を発揮できる社会
・個人の尊厳と人権が尊重される社会
という三つのビジョンを示しています。
ここでの「包摂」は、
制度として暮らしの基盤があること、安心が保証されることを意味し、
単なる理念ではなく政策の方向性として位置づけられています。

■ 政府文書での用語の位置づけ(共生社会のロードマップ)
政府は、『外国人との共生社会の実現に向けたロードマップ』という政策文書を策定し、次のような方向性を示しています。
目指すべき社会のビジョンとして、次の三点が挙げられています。
①安全・安心な社会
 外国人も含めて全ての人が安心して暮らせる環境の整備。
②多様性に富んだ活力ある社会
 様々な背景を持つ人々が社会に参加し、能力を発揮できること。
③個人の尊厳と人権を尊重した社会
 差別や偏見なく暮らせる社会の実現。
また、このロードマップは単なる理念文書ではなく、
・日本語教育の支援
・情報提供・相談体制の整備
・ライフステージに応じた支援
・共生社会の基盤整備
といった、具体的な施策の方向性と課題整理を伴っています。
これはつまり、政府が掲げる「共生社会」とは
「理念的に良い言葉を並べるもの」ではなく、
生活実態や支援制度の整備方向を示す政策骨格であるということです。

■ 補足:行政の用語と一般的認識のズレ
行政文書が示す用語の使い方は、しばしば一般の社会認識とは異なることがあります。
行政の「多文化共生」は、対立の克服と調整を含む政策方向であり、
一部の論者が使う「文化的多様性の評価」や「理想社会の像」とは必ずしも一致しません。
そのため、本ブログでは、行政の文脈も尊重しつつ、理念の現実的な条件や責任の観点から言葉を定義しています。

※ まとめ
 用 語  行政文書での位置づけ
 多文化  異なる背景の人々が共に暮らす現実の認識(違いの尊重・相互関係)
 共 生  日常生活のルールのもとで関係を保つこと
 包 摂  制度的環境を整え、人々が安心して暮らす基盤

行政文書における「共生社会」は、理念だけでなく、支援や環境整備の方向性を示す政策文書として用いられています。

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