はじめに
東京都が制定した「東京都雇用・就業分野における女性の活躍を推進する条例」(略称「東京都女性活躍推進条例」)は、その理念自体を見れば、女性が不利益を被らない社会を目指すという点で、多くの人が異論を唱えにくい内容です。女性の就業環境改善、キャリア形成支援、ハラスメント防止――いずれも重要な政策課題であり、理念として否定されるものではありません。
しかし、理念が正しいことと、制度設計や運用が適切であることは別問題です。
本稿では、条例そのものではなく、条例に基づき東京都が策定する「指針」と、その具体的運用に焦点を当て、自由主義・民主主義の観点から慎重な検討が必要である理由を論じます。
問題は「条例」ではなく「指針」と「運用」にある
東京都女性活躍推進条例は、理念的・抽象的な規定が中心です。ところが実際の行政運営においては、条例そのものよりも、
・条例に基づいて定められる「指針(ガイドライン)」
・それをどう運用するか
が、事業者や都民の行動を事実上規定します。
法的強制力がなくとも、
・行政評価
・認証制度・補助金
・報道や世論
・日本社会特有の同調圧力
と結びつけば、指針は「従わないと問題視されかねない基準」へと変質します。
このソフトな行政誘導の強さこそが、最大の論点です。
「生理痛疑似体験」が示す行政の一線越え
現在、指針案をめぐって議論を呼んでいるのが、事業者の取り組み例・責務として、
・男性管理職等に女性の生理痛を疑似体験させる研修
を盛り込もうとしている点です。
ここで問うべきは、生理痛への理解を深めること自体ではありません。
問題は、行政が共感や理解の「方法」まで具体的に指定・誘導していることです。
理解促進の方法には、講義、医学的知識の共有、当事者の声の紹介、制度設計の工夫など、無数の選択肢があります。
それにもかかわらず、特定の体験型手法、しかも装置を伴う方法を行政が推奨することは、政策手段の中立性を逸脱しています。
「強制ではない」という反論が成立しない理由
想定される反論に、「義務ではない」「強制していない」というものがあります。
しかし、日本社会においてこの反論は現実的ではありません。
行政が「望ましい取組」と示した瞬間、
・事業者は「やらないと問題になるのでは」と感じる
・横並びで導入が進む
・結果として事実上の標準になる
という構図が生まれます。
法的強制がなくとも、社会的強制は成立するのです。
税金・研修・装置が結びつくときに生じる構造的疑念
さらに看過できないのが、この施策が税金と結びつく可能性です。
・都の予算(都民の税金)
・行政主導の研修モデル
・特定の装置・機器の使用
この三点が揃うとき、社会は必然的に「誰が利益を得るのか」「特定企業との癒着はないのか」という疑念を抱きます。
ここで重要なのは、現時点で不正が立証されていなくても、疑念を招く制度設計そのものが問題だという点です。
民主社会では、「不正があったか」以前に、「不正を疑われない構造か」が問われます。
都知事の責任――「手を下さない悪政」
指針策定と運用の最終責任者は東京都知事です。知事が、
・指針の具体化に歯止めをかけず
・疑念を招く施策を黙認し
・「理念」や「善意」を盾に批判を退ける
のであれば、
それは自ら命じずとも社会に圧力を生じさせる形での悪政です。
これは典型的な「間接的権力行使」であり、民主政治において最も警戒すべき態度です。
全体主義ではない。しかし危うい!
この問題は、政治学的な意味での全体主義(ファシズム)ではありません。しかし、
・善意の理念
・行政権力
・同調圧力
・税金
が結びつくことで生じる「静かで見えにくい統制」の危険性をはらんでいます。
だからこそ、今の段階での検証と修正が不可欠なのです。
想定される批判へのQ&A
Q①「被害妄想ではないか。実害は出ていない」
A:法的強制がなくても、行政指針と同調圧力が結びつけば行動は拘束されます。
これは日本社会で繰り返されてきた現象です。
確かに、施行前の現時点で東京都の条例によって、誰かが処罰されたり、思想を理由に法的制裁を受けたりした事例は確認されていません。この点だけを見れば、「問題は起きていない」と言うことも可能でしょう。
しかし、本稿で論じているのは、すでに発生した被害ではなく、制度が内包する構造的リスクです。政治学や憲法思想において重要なのは、「実害が出てから止める」ことではなく、「実害が出うる仕組みを事前に抑制する」ことです。
特に、日本社会では同調圧力が強く作用するため、問題は可視化されにくく、表面化したときにはすでに沈黙が常態化している可能性があります。この意味で、「まだ被害が見えない」こと自体が、安全の証明にはなりません。
Q②「何も強制していないのだから問題ない」
A:条例が刑罰や命令を伴わないことは事実です。しかし、自由の侵害は必ずしも「強制」や「処罰」という形でのみ生じるわけではありません。
行政が特定の価値観を公式に提示し、それが社会的評価や人間関係、職場環境と結びついたとき、人々は合理的判断として沈黙を選びます。これは、外形的には自由意思の選択に見えても、実質的には発言や良心の行使が萎縮している状態です。
自由主義の観点から問題となるのは、「強制の有無」だけでなく、自由が実質的に行使可能な環境が維持されているかどうかです。
Q③「理念が正しいのだから細かい懸念は不要だ」
A:仮に理念が正しいとしても、それが直ちに行政権力による価値提示の無制限な正当化につながるわけではありません。むしろ、理念が「正しい」と広く信じられているからこそ、異論が表に出にくくなり、沈黙が強化される危険があります。
自由主義社会においては、
正しい目的であっても、権力行使には常に慎重さが求められる
この原則を緩めたとき、善意は容易に自由の侵食へと転じます。
Q④「反対意見も言えるのだから問題ない」
A:理論上は反対意見を述べる自由があっても、現実には、
・不利益を被る不安
・レッテル貼りへの恐れ
・孤立への忌避
があれば、多くの人は沈黙を選びます。
重要なのは、「言えるかどうか」ではなく、「安心して言える空気が維持されているか」です。
この点を軽視すると、自由は形式だけが残り、実質は失われていきます。
Q⑤「女性支援を否定しているのでは?」
A:理念自体は否定していません。問題にしているのは、行政が特定の価値観や手法を「標準」として押し出す構造です。
Q⑥「理解促進のためなら多少の踏み込みは必要では?」
A:理解促進と思想・内心への介入は別物です。行政は方法の多様性を確保すべきです。
法学・政治学的補論――権威主義と自由主義の境界
政治学的に見れば、東京都の施策は全体主義(ファシズム)ではありません。
しかし、強い権威主義的運用の萌芽は見られます。
権威主義体制の特徴は、処罰よりも「従った方が楽だ」という環境を作る点にあります。
自由主義社会では、行政は個人の内心・良心・沈黙の自由に最大限配慮しなければなりません。
価値観形成を行政が誘導し始めた瞬間、その境界線は極めて曖昧になります。
おわりに――求められるのは政治・行政側の厳しい自制
本当に必要なのは、
・指針内容の抽象化
・特定手法・装置の排除
・透明な調達・委託
・権力者自身の自制
です。
理念を守るためにこそ、権力は抑制されなければなりません。東京都の政策が信頼されるかどうかは、今後の設計と運用にかかっています。
