なぜ日本のリベラルは行政による「静かな統制」に鈍感なのか?――善意・弱者支援・同調圧力が生む逆説

はじめに

東京都女性活躍推進条例をめぐる議論は、単なる一条例の是非を超え、日本社会における「リベラル」のあり方そのものを照らし出しています。
とりわけ注目すべきなのは、行政権力が価値観や意識の領域に間接的に踏み込む危険性について、いわゆるリベラル派がほとんど警戒を示さない、むしろ積極的に後押ししているように見える点です。

本稿では、この現象を個々の人物の善悪や意図に還元するのではなく、政治思想・日本社会の構造・リベラル思想の変質という観点から整理し、なぜそのような逆説が生じているのかを考察してみました。

本来のリベラリズムは「権力不信」から始まった

歴史的に見れば、リベラリズムの出発点は明確です。それは、
・国家権力はいかなる名目であれ、個人の自由を侵害し得る
という根源的な不信です。

思想・良心・内心の自由は、刑罰や検閲といった露骨な抑圧だけでなく、
「善導」「教育」「啓発」という名目によっても侵されうる。

この警戒線を引くことこそが、自由主義の核心であったのです。

日本のリベラルは「国家」より「社会的差別」を見ている

ところが戦後日本のリベラルは、次第に関心の中心を移動させてきました。
・国家権力 vs 個人
という図式よりも、
・多数派(強者)vs 少数派(弱者)
という社会構造の是正に重点を置くようになったのです。

この転換自体は理解可能であり、一定の歴史的必然性もありました。
しかしその結果、「弱者支援」を掲げる行政施策については、権力性そのものが見えにくくなるという副作用が生じたのです。

「善の目的」が「手段への問い」を麻痺させる

女性活躍、差別解消、理解促進――これらは道徳的に正しい目的です。
そのため、こうした政策に対して制度設計上の懸念を示すと、次のような反応が返ってきやすいのです。
・なぜそんな細かいことを言うのか!
・被害妄想ではないか!
・目的に賛同しないのか?!

ここで起きているのは、目的の正当性が、手段の自由主義的制約を検討する思考を停止させている状態なのです。
これは、全体主義的思考そのものではありませんが、全体主義が成立する際に必ず通過する思考回路でもあるのです。

日本社会特有の「同調圧力」が理論化されていない

日本社会における統制は、多くの場合、命令や罰則の形を取りません。
・空気を読む
・横並びで行動する
・目立たないようにする

こうした同調圧力は、法的には自由が保障されていても、現実の行動を強く拘束します。しかし、日本のリベラル思想はこの「非公式な圧力」を権力として十分に理論化してこなかったのです。

その結果、「強制ではない」「罰則がない」という一言で、問題が存在しないかのように扱われてしまうのです。

行政権力が「味方」に見えるとき、監視は止まる

警察、軍事、治安政策に対しては厳しく権力監視を行う一方で、福祉、教育、ジェンダー政策に関わる行政権力は「市民側の権力」「進歩のための手段」と見なされがちです。

しかし、権力は目的によって無害化されるものではありません。
誰のためであれ、行政が価値観形成に踏み込むとき、自由主義的な警戒は等しく必要なのです

沈黙が合理的になる言論空間

制度設計への懸念を示すと、「差別擁護」「保守と同じ」というレッテルを貼られるリスクが現実に存在しています。
このため、問題意識を持っていても、あえて沈黙する、あるいは賛同を装う方が合理的になるのです。
これは、皮肉なことに、行政による直接的な統制ではなく、
社会的空気によって言論が狭められていく典型例なのです。

おわりに――本来リベラルが引くべき境界線

本稿で論じた問題は、特定の条例や政策に限りません。
問われているのは、
・善意であっても、行政権力はどこまで踏み込んでよいのか?
という、自由主義社会にとって根源的な問い
なのです。

全体主義と断じる必要はありません。
しかし、境界線を引く作業を怠れば、統制は常に「静かな形」で忍び寄るのです。
「行政を支持するからこそ、行政を疑う」
この緊張関係を失ったとき、リベラルは自らの足場を失うでしょう。

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