はじめに
現代の政治議論では、「全体主義」という言葉が強い非難のレッテルとして使われることがあります。しかし政治学における「全体主義(totalitarianism)」は、単なる強権政治や独裁体制と同義ではありません。
本記事では、
・政治学で定義される「全体主義」とは何か?
・「権威主義」とは何が違うのか?
・とくに「内心の自由」という観点から、両者の本質的な違い
・そして、日本の大日本帝国の戦時体制は全体主義だったのか?
これらを、専門知識がない方にも理解できる形で整理します。
政治学における「全体主義」の定義
政治学でいう「全体主義」とは、国家が社会の「すべて」を統合的に支配しようとする体制を指します。代表的な研究者としては、ハンナ・アーレントやカール・フリードリヒらがいます。
全体主義体制の典型的特徴は、次のように整理されます。
・国家公式の包括的イデオロギーが存在する
・そのイデオロギーが「正しい世界観」「正しい人間像」を規定する
・政党・メディア・教育・文化・私生活までが統制対象となる
・国民は「従う」だけでなく「信じる」ことを要求される
・内心と行動の分離が許されない
ナチス・ドイツやスターリン体制下のソ連が、典型例として挙げられます。
重要なのは、全体主義とは単なる暴力的独裁ではなく、「意味」「価値」「思想」まで国家が独占しようとする体制だという点です。
「権威主義」とは何か?
これに対して「権威主義(authoritarianism)」は、政治的権力の集中と自由の制限を特徴とする体制です。
権威主義体制の主な特徴は以下のとおりです。
・政治的競争(選挙・政党活動)が制限される
・表現の自由・結社の自由が制限される
・しかし、社会や私生活の全面的統制までは行わない
・国民の内心や思想まで「信奉」を求めるとは限らない
多くの軍事政権や開発独裁体制、現代の一部の非民主主義国家は、このカテゴリーに入ります。
権威主義は、「政治的に逆らうな」という体制であり、
全体主義は、「何を信じ、どう考えるかまで一致せよ」という体制だ
と言えます。
決定的な違い――「内心の自由」への態度
両者の違いを最も明確に示すのが、「内心の自由」への態度です。
(1)権威主義体制
・行動の自由を制限する
・政治的沈黙や服従を求める
・しかし、内心まで統一しようとはしないことが多い
(2)全体主義体制
・行動と内心の一致を要求する
・国家イデオロギーへの「信仰」を求める
・内心の不一致そのものが「敵意」「犯罪」と見なされる
アーレントが指摘したように、全体主義においては
「考えること」そのものが危険になります。
つまり、全体主義の本質的恐怖は、
処罰の厳しさ以上に、
「人が自分の内面に逃げ込む場所を失うこと」
にあります。
大日本帝国の戦時体制は「全体主義」だったのか?
この点は、日本でとくに混乱が生じやすい論点です。
結論から言えば、
大日本帝国の戦時体制は、強度の高い権威主義体制であったが、政治学的意味での「全体主義」と同一視することには慎重であるべきです。
理由は以下のとおりです。
①一元的イデオロギー政党が存在しなかった
ナチス党や共産党のように、国家と社会を完全に統合する単一政党は存在しませんでした。
②統治構造が多元的・分散的だった
軍・官僚・天皇・政党・財界など、権力は複雑に分散しており、全体主義的な「中央集権的一枚岩」ではありませんでした。
③内心の全面統制には至っていない
思想警察や弾圧は存在しましたが、
国民全員に一貫したイデオロギー信仰を内面化させる水準には至っていません。
そのため、日本の戦時体制は
「自由と民主的統制を大きく制限した、動員型・国家主導型の権威主義体制」
と理解するのが、政治学的には最も妥当です。
なぜ定義の厳密さが重要なのか
「全体主義」という言葉を安易に使うことには、二つの危険があります。
一つは、
・本来区別すべき体制の違いを曖昧にし、歴史理解を歪めること。
もう一つは、
・本当に「内心の自由」まで侵食する体制が現れたときに、警戒感が鈍ること
です。
政治学の概念は、
感情的レッテルではなく、
現実を正確に見分けるための「分析道具」です。
おわりに
全体主義と権威主義の違いは、
「どれほど厳しいか」ではなく、
「どこまで人間の内面に踏み込むか」にあります。
政治を考えるうえで重要なのは、
権力が何を禁止しているかだけでなく、
何を「信じるべきだ」と語り始めているのかに注意を向けることです。
それこそが、政治学が私たちに与えてくれる、最も重要な視点の一つなのです。
戦前の日本、すなわち大日本帝国の戦時体制が示した「強い権威主義」を、全体主義との距離を見極めつつも、自由を脅かすものとして警戒する姿勢は、現代においても重要です。
しかし同時に、私たちはもう一つの、より見えにくい危険にも目を向ける必要があります。
それは、善意の理念を掲げた政策に、行政権力、日本社会特有の同調圧力、そして公的資金(税金)が結びつくことで生じる、「静かで、抵抗しにくい統制」の広がりです。
東京都女性活躍推進条例をめぐる一連の動きは、処罰や露骨な強制を伴わないがゆえにこそ、価値観や意識の領域にまで行政が関与し得る構造を内包している点で、慎重な検証を要します。
また、女性の解放と尊厳の確立を目指してきた本来のフェミニズムが、いつの間にか「正しい意識」や「あるべき態度」を管理・指導する方向(管理・統制型フェミニズム)へと変質していくならば、それは新たな自由の抑圧を生みかねません。
理念が純粋であるほど、その運用が統制的に傾いたときの影響は見えにくく、しかし深刻になり得ます。
自由を守るとは、過去の露骨な抑圧だけを記憶することではありません。
善意の名の下に、静かに、そして制度的に進む統制の兆しに気づき、立ち止まって考えることこそが、現代の民主主義社会に生きる私たちに求められているのではないでしょうか。
