はじめに
日本では長らく、「移民政策は採っていない」という言い方が繰り返されてきました。
しかし、現実を見ればどうでしょうか。製造業、建設、農業、介護、外食――社会のあらゆる現場で、外国人労働者なしには回らない状況が常態化しています。
にもかかわらず、政治は正面からこの現実を語ってきませんでした。
賛成か反対かを巡る感情論に怯え、「移民政策はやっていないこと」にすることで、問題そのものを先送りし続けてきたのです。
その結果、私たちはいま、誰も責任を引き受けない形で膨張した “事実上の移民社会” に直面しています。
本稿で問いたいのは、移民に賛成か反対かという単純な二分法ではありません。
なぜ、ここまで歪んだ形で事態が進んでしまったのか?
そして、どこに立て直しの余地が残されているのか?
有権者として、そこに目を向けたいのです。
「やらない」と言いながら、実際には受け入れてきた
日本政治は長年、「いわゆる単純労働者は受け入れない」という建前を死守してきました。
しかし同時に、深刻な人手不足という現実から目を背けることもできなかった。
その結果、表と裏が乖離した政策運用が常態化します。
・研修や技能実習の名目で、実質的には労働力として人を受け入れる
・専門性や技能等の立証について、形式的に整っていれば入国審査・在留審査を通す
・滞在が長期化・反復化しても、厳密な線引きを行わない
こうした運用の積み重ねによって、「移民政策ではない」と言いながら、結果としては定着を伴う受け入れ(=永住型の労働移民の受け入れ)が積み重ねられてきました。
少子化対策は、本気で行われてきたでしょうか?
耳触りの良いスローガンや部分的な支援はありました。
しかし、若者の可処分所得、雇用の安定、教育費と住宅費の重圧といった根本には、ほとんど手が付けられていません。
その結果、政治が選び続けたのは「即効性のある手段」でした。
それが、外国人労働への依存です。
日本社会そのものが、すでに外国人労働者を前提に設計されてしまっているのです。
介護、建設、農業、外食--これらの現場を、今すぐ外国人なしで回せるでしょうか。
答えは、残念ながら「ノー」です。
だから移民は止まらない。
止めたくないからではありません。
止められない構造を、30年かけて作ってきたからです。
ここで重要なのは、2025年12月現在の内閣が「この構造を作った側」ではないという事実です。
むしろ、後始末を引き受ける立場にあります。
誰が首相であれ、企業、自治体、国際社会との約束が絡み合った圧力の中で、簡単に流れを止めることはできません。
だからこそ、この問題を「誰のせいか」で語り続けることは、現実からの逃避なのです。
これは理想主義の失敗ではありません。
政治が責任ある説明を避け続けた結果として生じた、制度的な歪みです。
完全不可逆ではない――それでも時間は残されている
確かに、日本はもう外国人労働者ゼロでは成り立ちません。
しかし、だからといって「増え続けるしかない」「定住が自動的に進むしかない」という結論は飛躍です。
人口減少は不可逆でも、社会の設計まで不可逆ではありません。
労働力不足、生産性、生活水準をすべて同一視する思考停止こそが、日本を追い込んできました。
介入余地は、確かに存在します。
・定住化までの条件設計
・家族帯同の要件
・業種別、地域別の受け入れ管理
・低賃金・低生産性構造への政治的介入
これらは排外主義ではありません。国家としての設計の問題です。
重要なのは、すべてが完全に手遅れだという話ではないことです。
制度は人が作ったものです。ゆえに、作り直す余地もあります。
ただし、そのためには幻想を捨てる必要があります。
・条件を少し厳しくすれば解決する。
・要件を書き換えれば是正できる
――そうした発想だけでは、もはや不十分です。
問題の核心は、要件・基準そのものではなく、「その要件・基準が本当に機能しているのか?」にあります。
介入余地はどこにあるのか?
立て直しの鍵は明確です。
それは、入国・在留審査の「実効性のある適正化」です。
つまり、
・基準や要件が書かれているかどうかではなく
・その基準への適合性を、実際に見抜ける審査が行われているか
・それを支える審査手法と体制が、現実的に確保されているか
ここが問われなければなりません。
書類が揃っているかどうかだけを見る審査では限界があります。
技術や技能や知識、日本語能力、就労の実態――
それらを総合的に判断できる運用でなければ、制度は必ず形骸化します。
「ルールはあるのに、守られていない」
この状態を放置したまま、共生だけを語ることはできません。
もう一つ、避けて通れない介入点があります。
それは、外国人材の新規受け入れ人数そのものを、政治の責任で管理することです。
これまでの日本では、
「制度を整えれば、あとは需要に応じて人が入ってくる」
という、半ば自動操縦のような運用が続いてきました。
しかし、それでは社会の受け入れ能力を超えてしまいます。
本来、国家が行うべきなのは、
・当面の期間(たとえば今後3年程度)を見据えた
・産業別・業種別・職種別の受け入れ人数の上限設定
・その人数を毎年度ごとに検証・見直す仕組み
を、明確な政治判断として示すことです。
「人手が足りないから入れる」のではなく、
「社会として受け止められる最小限の人数はどこか」
を先に決める。
これは排除ではありません。
管理の放棄から、統治への転換です。
必要なのは、最大数ではなく、必要最少人数です。
上限を設け、毎年検討し直し、増減の理由を説明する。
そうしたプロセスを政治が引き受けなければ、
受け入れも共生も、いずれ現場で破綻します。
審査の実効性と、人数管理。
この二つが揃ってはじめて、「介入した」と言えるのです。
次に必要なのは、少子化対策を理念ではなく構造に戻すことです。
「産んでほしい」と言う前に、「育てられる条件を整えている」のか?
「働いて報われる社会を作っている」のか?
この問いから逃げて、移民だけを語るのは欺瞞です。
そして最後に、最も苦しい選択があります。それは、すべてを守ろうとしないことです。
人口が減る中で、全産業、全地域、全制度を維持することはできません。
どこを守り、どこを畳むのか。移民で延命するのか、設計を組み替えるのか。
ここに、国家としての覚悟が問われています。
「共生」は願望ではなく、制度と覚悟の問題です
多文化共生という言葉は、ときに便利な免罪符として使われてきました。
しかし、共生とは「何でも受け入れること」ではありません。
本来、外国人との共生社会を実現するには、
言語、教育、治安、医療、社会保障、住宅、地域コミュニティ――
多くの分野で、事前の準備と制度設計が不可欠です。
日本は、正直に言えば、この点で大きく遅れてきました。
受け入れを進めながら、
・日本語教育は後回し
・子どもの教育環境も場当たり的
・地域の治安や生活ルールの調整は現場任せ
・社会保障の負担と権利の整理も曖昧
こうした「後追い型の共生」が、摩擦を拡大させてきたのです。
それでも、いまからでもやるしかありません。
必要なのは、「共生を唱えること」ではなく、
社会統合政策を、正式な国家政策として整備・充実させることです。
具体的には、
・言語教育を権利と義務の両面で制度化する
・学校教育における支援体制を恒常化する
・地域社会でのルールと責任を明確化する
・社会保障へのアクセスと負担の線引きを透明化する
こうした分野を、移民・外国人政策の「付属物」ではなく、
国家の基幹政策として位置づけ直す必要があります。
共生とは、優しさではありません。
制度と線引きと説明責任の集合体です。
それを避け続けた結果が、
「現場に押し付けられた共生」であり、
そこから生じた不信と分断でした。
いま問われているのは、有権者の覚悟です
この問題は、官僚や行政だけの問題ではありません。
最終的に方向を決めるのは、政治であり、その政治を選ぶのは有権者です。
見たい現実だけを見るのか?
それとも、不都合な事実も引き受けたうえで、制度を立て直すのか?
賛成か反対かではなく、
「責任を持つのか、持たないのか」※が、いま問われています。
※ここでいう「責任を持つ」とは、
外国人を受け入れたその後に起きる現実から目を背けないことです。
たとえば、日本語が十分でない子どもをどう教育現場で支えるのか。
地域で摩擦が起きたとき、誰が調整し、どんな制度で支えるのか。
医療や社会保障の負担が増えるなら、その費用を誰が、どのように負担するのか。
これらを「起きてから考える」のではなく、
起きると分かっている問題として事前に制度を整え、必要なコストや不都合を社会全体で引き受ける覚悟を持つこと――それが、ここで言う「責任を持つ」という意味です。
想定される反論と、その答え
Q1:それは結局、移民推進の正当化ではないですか?
いいえ、違います。本稿は「移民を増やせ」と主張していません。
むしろ、現実を直視せず、なし崩しに受け入れが進むことの危険性を指摘しています。
管理なき現状維持こそが、最も無責任な移民政策です。
Q2:外国人労働者がいなければ、日本は回らないのだから仕方ないのでは?
短期的にはその通りです。
しかし、それを理由に低賃金構造や非効率な産業を温存し続ければ、依存は強まる一方です。
「必要」と「無制限に依存する」は別問題です。
Q3:これは排外主義につながりませんか?
排外主義とは、感情で他者を排除する態度です。
本稿が提起しているのは、国家としての制度設計と責任の問題であり、人種や国籍による優劣を語るものではありません。
Q4:結局、国民に我慢しろという話ですか?
いいえ。むしろ逆です。
これまで我慢を強いられてきた構造を放置したまま、移民だけで解決したふりをすることに異議を唱えています。
痛みを直視し、分配と設計をやり直すための議論です。
Q5:外国人材の受け入れ人数に上限を設けるのは、排外主義ではありませんか?
いいえ、違います。
本稿で述べる受け入れ人数の管理や上限設定は、外国人を排除する発想ではなく、社会が責任を持って受け入れるための制度設計を指します。
むしろ、上限を設けず、需要任せで受け入れを拡大することは、
言語教育、地域社会、治安、社会保障といった分野での準備を置き去りにし、
受け入れられる側にも、受け入れる側にも過度な負担を強いる結果になりかねません。
人数を管理し、毎年検証し、必要最少人数に抑えることは、
共生を真剣に成立させるための前提条件であり、
排外主義とは正反対の、統治と責任の問題です。
編集後記
この文章は、特定の立場や感情を煽るために書いたものではありません。
むしろ、日本社会が長く避けてきた「正面から語るべき現実」を、できるだけ静かに、しかし曖昧さなく言葉にしたつもりです。
移民政策は、理想論でも恐怖論でも成り立ちません。
制度と運用、そして説明責任の積み重ねでしか、社会は持続しないからです。
この問題を「難しいから」「揉めるから」と棚上げし続けた結果が、現在です。
ならば次は、有権者一人ひとりが、このテーマを自分の問題として考える番ではないでしょうか。
考えることを放棄しないこと。
それこそが、立て直しの第一歩だと信じています。
