なぜ除夜の鐘は「声の大きい少数派」に屈してしまうのか――寺院の問題ではなく、社会構造の問題として考える

【誤読回避のための注意書き】

本記事は、「除夜の鐘が中止される事例」を素材として、
日本社会における合意形成の構造的な課題を考察するものです。
特定の苦情を申し立てた個人を非難したり、
不快を感じる人の存在そのものを否定したりする意図はありません。
また、寺院関係者の姿勢や信念を断罪するものでもありません。

あくまで、
・なぜ現場が「中止」という選択に追い込まれやすいのか
・その背景にどのような社会構造があるのか
を冷静に整理し、問題提起することを目的としています。
この点をご理解いただいたうえで、お読みください。

はじめに

近年、「除夜の鐘がうるさい」という苦情をきっかけに、
大晦日の行事を中止・縮小する寺院が各地で見られるようになりました。

この状況に対し、
「寺が弱腰になったからだ」
「伝統を守る気概が失われたからだ」
と感じる人も少なくありません。
しかし、実態を丁寧に見ていくと、
この問題は寺院や僧侶個人の意識の問題というより、
現代日本社会の構造的な歪みによって生じている側面が強いように思われます。

本稿では、
なぜ多くの寺院が、結果として「声の大きい少数の苦情」に抗えなくなっているのかを、
社会構造の観点から考えてみたいと思います。

支持している人の多くは「沈黙している」

まず確認しておきたいのは、
除夜の鐘を「好意的に受け止めている人」の多くが、
実際には何も発言していないという現実です。
多くの住民にとって、除夜の鐘は、
・毎年あって当たり前の行事
・特別に主張するほどの問題意識はない
・なくなれば寂しいが、積極的に声を上げる対象ではない
といった存在です。

一方で、苦情を申し立てる人は、
・明確な不快感を持っている
・行動の動機が強い
・電話やメール、場合によっては行政にも訴える
という特徴を持っています。

その結果、寺院側に届く「可視化された声」は、
反対意見に偏りがちになります。
特に、檀家の数が少なく、財政的にも余裕のない寺院では、
「この行事を支えてくれる人が実際にどれだけいるのか」を実感できないまま、
少数の強い苦情と向き合わされることになります。

この状況で中止を選択することは、
意志の弱さというより、
孤立した現場が取り得る現実的な判断と言えるでしょう。

規模の大きな寺院も、別の理由で抗えない

では、歴史も規模もある寺院であれば、除夜の鐘を守り抜けるのでしょうか。

必ずしもそうとは限りません。
大規模寺院や有名寺院では、
・僧侶が宗教者であると同時に、組織の管理者として振る舞う必要がある
・SNSや報道による炎上リスクを強く意識せざるを得ない
・近隣住民や自治体との摩擦を極力避ける判断が優先される
といった事情があります。
その結果、
・行事を続けることで得られる文化的・精神的価値
よりも
・中止することで回避できるリスク
が重く見積もられがちになります。
これは個々の僧侶の信念の問題というより、
組織として合理的に振る舞った結果、生じる「事なかれ主義」と言えるでしょう。

規模の大小にかかわらず、
寺院はそれぞれ異なる理由を抱えながらも、
同じ結論――「中止」へと追い込まれていくのです。

公共性の高い文化なのに、責任だけが現場に集中する

もう一つ見逃せないのは、
除夜の鐘が地域文化という公共性の高い行事であるにもかかわらず、
その運営責任とリスクが、ほぼ寺院だけに集中している点です。
・行事は地域全体で共有されてきた文化
・しかし苦情対応は寺院が一手に引き受ける
・行政は「当事者同士での話し合い」を求めるにとどまる
・明確な判断基準や支援の枠組みは存在しない

この構造では、
寺院が負担を抱え込み、疲弊していくのは避けられません。
結果として、
・公共性のある文化ほど、
場の負担が限界に達し、
・最も摩擦の少ない「中止」という選択が繰り返される
という現象が起きています。

「屈服」は個人の弱さではなく、構造の帰結である

以上を踏まえると、
除夜の鐘が中止される理由は次のように整理できます。
・小規模な寺院は、支援者が見えない孤立状態に置かれる
・大規模な寺院は、組織合理性によってリスク回避を選ぶ
・社会全体として、沈黙する多数の意思を集約する仕組みがない
この三点が重なり、
声の大きい少数の主張が通りやすい構造」が生み出されています。

これは寺院の怠慢でも、
不快を感じる人の存在が悪いわけでもありません。
公共性をどう扱うかという社会全体の設計の問題です。

本当に問われているのは、私たち自身の態度

除夜の鐘の問題は、
単なる騒音をめぐる対立ではありません。
それは、
・地域文化を誰が支えるのか
・合意形成を誰が担うのか
・沈黙している多数は、どこまで責任を免れるのか
という問いを私たちに突きつけています。

除夜の鐘が消えていくのは、
「嫌だと感じる人がいるから」だけではありません。
守りたいと思っている人が、
何も言わず、何もしなかった結果でもある

この視点を欠いたままでは、
除夜の鐘に限らず、
祭りや地域行事、共同体の記憶は、
静かに失われていくでしょう。

問題は、特定の誰かにあるのではありません。
沈黙を選び続けてきた社会全体に、今こそ向き合う必要があるのではないでしょうか。

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2025年12月1日付け投稿記事『大晦日の除夜の鐘が“クレームで中止”される異常さ──「声の大きい少数者」に社会が振り回されないために』

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