個人攻撃では何も変わらない――ワイドショー批判で本当に向けるべき相手は誰か

テレビのワイドショーを見ていると、同じ顔ぶれの出演者が、時に明らかに矛盾した発言や、首をかしげたくなるような主張を繰り返している場面に出くわします。
そうした発言に対して強い憤りを覚え、ネット上で出演者本人への人格攻撃・個人攻撃が噴出する光景も、もはや珍しくありません。
でも、その怒りの向け先は、本当に正しいのでしょうか。

出演者は「自由に語っている」のか

ワイドショーの出演者は、一見すると自分の信念に基づいて自由に発言しているように見えます。
けれども実態は、そう単純ではありません。
多くの番組では、
・あらかじめ想定された論調
・視聴者層に合わせた役割分担
・対立構図を作るための“立ち位置”
・スポンサーや局の方針を踏まえた暗黙の線引き
といった枠組みが存在し、出演者はその中で「期待された役」を演じているに過ぎない場合が多いのです。
発言内容が酷く見えるとき、それは個人の倫理観だけでなく、番組がそうした発言を求めている構造の反映でもあるのです。

個人攻撃がもたらす「何も変わらない結果」

仮にネット上の批判が高まり、ある出演者が降板に追い込まれたとしましょう。
しかし、その結果どうなるかは、これまで何度も見てきた通りです。
・すぐに代役が用意され
・同じ立ち位置、同じ役割を担い
・ほぼ同じ論調で番組は続く
番組制作者にとって、出演者の交代は最もコストが低く、最も安全な炎上回避策なのです。
個人攻撃は、一時的な溜飲は下げても、番組の本質を一切変えません。
むしろ、問題の焦点を「個人」に矮小化することで、制作体制や番組方針への批判を逸らす役割すら果たしてしまうのです。

テレビ局が本当に気にする存在

では、テレビ局が本当に恐れるのは何でしょうか。
それは、視聴者の怒りそのものではありません。
スポンサー企業の判断なのです。
スポンサーの撤退や企業イメージの毀損は、直接的に番組の存続と局の収益に影響します。
だからこそ、番組内容を実質的に規定している最終的な力は、出演者個人ではなく、制作側、そしてスポンサーにあるのです。

スポンサーへの抗議と不買は「正当な意思表示」

問題のある番組内容に対して、
・スポンサー企業に意見を伝える
・その姿勢が改まらないなら、商品を買わない
これは、決して過激な行動でも、言論封殺でもありません。
消費者が
「自分の価値観に合わない企業を支持しない」
という選択をすることは、市場経済における正当で穏健な意思表示なのです。
思想・表現の自由を尊重するからこそ、
「批判する自由」と同時に
「支持しない自由」「買わない自由」
も尊重されるべきなのです。

なぜこの視点が広がりにくいのか

個人攻撃は分かりやすく、即効性があるように見えます。
一方で、スポンサーへの抗議や構造批判は、冷静さと手間を要し、地味です。
その結果、怒りは最も目につきやすい個人に集中し、
本来問われるべき構造は温存されるのです。
しかし、それでは何も変わりません。

おわりに――賢明な視聴者であるために

問題のある発言は、特定の出演者の人格だけに帰せられるものではありません。
そうした性向や発言傾向を持つ人物が選ばれ、起用され続ける――その背景にある番組の構造こそが、より本質的に問われるべきなのです。
この
構造を変えたいのなら、
影響力のある場所に、冷静に、理性的に意思を示すしかありません。
無駄な個人攻撃を止め、
制作側とスポンサーに目を向けること。
それこそが、
視聴者が感情に流されず、社会を一歩前に進めるための、
最も賢明な行動ではないでしょうか。

\ 最新情報をチェック /

PAGE TOP
タイトルとURLをコピーしました