はじめに
第1回では、日本のいじめ対策が、制度および運用の段階で構造的な欠陥を抱えていることを確認しました。学校や教育委員会が、いじめ問題の「当事者」でありながら「調査者」でもあるという矛盾は、問題の矮小化や先送りを生みやすい構造となっています。
しかし、こうした対応を単に「無責任」「不誠実」と道徳的に断罪するだけでは、問題の本質には迫れません。なぜなら、隠すこと・揉み消すことが、個々の組織や人間にとって合理的な選択になってしまう社会的背景が存在するからです。
第2回では、その背景にある日本社会特有の意識構造や価値観に焦点を当てて考えていきます。
なぜ「いじめを認める」ことが不利になるのか
(1)認定=失敗の烙印という構図
日本の学校現場では、いじめが公式に認定されることは、次のように受け止められがちです。
・学校運営に問題があった
・担任や管理職の指導力が不足していた
・組織としての統制が取れていない
つまり、「いじめを認める」ことは、教育の失敗を公に認める行為と同義になっています。
その結果、
・校長の評価・再任・昇進
・教員としての経歴
・学校全体の評判
といった要素に、直接的・間接的な不利益が及ぶと考えられています。
(2)「なかったこと」にする合理性
この構造のもとでは、
・いじめではないと説明する
・個別のトラブルに矮小化する
・指導で解決済みと扱う
といった対応のほうが、短期的には圧倒的に合理的です。
誰も強く責められず、書類上も大きな問題は残らず、学校生活は「平穏」に戻ります。
しかし、その平穏は、被害者の沈黙の上に成り立つものです。
「和」を乱す者が責められる社会
(1)問題そのものより「空気」が重視される
日本社会では古くから、集団の調和、いわゆる「和」を重んじる価値観が共有されてきました。この価値観自体が直ちに悪いわけではありません。
しかし、いじめ問題と結びつくと、深刻な弊害を生みます。
いじめる側よりも
それを問題化する側のほうが
「雰囲気を悪くする存在」として見られやすくなるのです。
(2)被害者が「面倒な存在」になる瞬間
いじめを訴える子どもや保護者は、ときに次のように受け止められます。
・細かいことを言う人
・大げさに騒ぎ立てる人
・学校に迷惑をかける人
こうして、被害者側が集団の和を乱す側として位置づけられてしまうと、周囲の同情や支援は急速にしぼんでいきます。
責任を個人に帰さない文化
(1)「みんなの問題」という便利な言葉
日本の教育現場では、いじめが発生すると、
・クラス全体の問題
・学年の雰囲気の問題
・みんなで考えるべき課題
といった表現が多用されます。
一見すると包括的で優しい言葉ですが、これは同時に、個人の責任を曖昧にする装置として機能します。
(2)誰も罰せられないという結末
責任が「場」や「空気」に溶かされると、
・加害行為を行った個人
・それを止めなかった周囲
・適切に対応できなかった大人
の誰も、明確な責任を負わなくなります。
結果として、被害者だけが傷を負い、加害行為の抑止力は働きません。
「悪意がなければ仕方ない」という免罪
(1)意図中心主義の落とし穴
日本ではしばしば、
・悪気はなかった
・冗談のつもりだった
・深く考えていなかった
といった説明が、行為の評価において重視されます。
しかし、他者の尊厳を踏みにじる行為は、意図の有無にかかわらず、結果として深刻な被害を生むことがあります。
(2)被害の現実が軽視される
意図中心の評価が優先されると、
・被害の深刻さ
・心理的ダメージ
・長期的な影響
よりも、加害者側の「気持ち」や「成長」が優先されがちになります。
これは、被害者にとって二重の否定となります。
失敗を認められない社会の怖さ
(1)謝罪と責任が切り離されている
日本社会では、謝罪は頻繁に行われますが、
・誰が
・どこで
・何について
責任を負うのかが明確にならないまま終わるケースが少なくありません。
(2)認めた者が損をする構造
・失敗を認めた学校が叩かれる
・正直に対応した教員が評価を下げる
こうした構造がある限り、「認めない」「記録に残さない」対応が合理的な選択になってしまいます。
おわりに(第3回への予告)
第2回では、いじめ問題の背後にある日本社会の意識構造を見てきました。
・和を乱すことへの過剰な忌避
・責任を個人に帰さない文化
・悪意の有無で問題を判断する傾向
・失敗を認められない組織風土
これらが重なり合うことで、いじめは「見えない問題」へと追いやられていきます。
次回(第3回)では、こうした構造を前提としたうえで、
・どのような制度設計が必要なのか
・何をどう変えれば被害者が守られるのか
を、具体策として提示します。
