事業を営んでいれば、「この規制は正直、邪魔だ」と感じる場面に必ず出会います。手続きは煩雑で、コストもかかる。現場感覚として、規制緩和を望む声が出るのは自然なことです。
ただし、そこで一度立ち止まって考えてみる必要があります。
規制とは、単なる「お上の介入」ではありません。
そもそも規制とは、公共的な観点から、社会全体の安全や信頼、秩序を維持するために設けられるものです。
この点は、憲法の考え方とも共通しています。
日本国憲法は、個人の権利や自由を最大限尊重していますが、それが無制限に許されるとはしていません。表現の自由も、営業の自由も、他人の権利や自由との調整、そして「公共の福祉」による制約を受けると明確にされています。
経済活動の自由も例外ではありません。つまり、経済活動が一定の規制を受けること自体は、異常でも不当でもなく、近代社会の大前提なのです。
たとえば飲食業の衛生基準や表示義務は、現場にとっては負担です。建築業の耐震基準も、コストを押し上げます。
しかし、それらがあるからこそ、消費者は安心して外食し、建物を利用できます。
もし規制がなければ、短期的には利益が増えても、事故や不祥事によって市場そのものへの信頼が崩れ、結果的に需要が消えます。
規制とは、個別企業の自由度を下げる一方で、市場全体の信頼を作り、需要を成立させる「土台」でもあるのです。
にもかかわらず、「規制が成長を潰している」「規制緩和こそが正義だ」という主張が、しばしば一般論として語られます。
ここには、大きな混同があります。
本来、「規制緩和」とは、過剰になった規制や、時代的役割を終えた規制を見直すという相対的・限定的な議論であって、決して絶対善ではありません。
それを無条件に持ち上げ、「自由であればあるほど良い」「縛りはすべて悪だ」と考えてしまうと、発想は容易に「今だけ、金だけ、自分だけ」の弱肉強食に傾きます。短期的な収益には合理的に見えても、社会全体の信頼や持続性を損なえば、最終的に市場そのものを痩せさせることになります。
さらに言えば、日本経済の停滞の主因は、規制の多さではありません。
本質的な問題は、需要を押し上げるマクロのエンジンが弱いまま、現場の努力や自己責任だけが過剰に求められている点にあります。諸外国と比べても、日本は財政インパルスの高い裁量的支出が少なく、需要創出が不十分です。その状態で規制だけを外しても、経済が力強く回るとは限りません。
ここで改めて思い出したいのが、日本の伝統的な経営哲学である「三方よし」です。
買い手よし・売り手よし・世間よし
これは美談や精神論ではなく、市場を長く続かせるための極めて現実的な知恵です。社会の信頼を損なうビジネスは、いずれ自らの首を絞めることになる。その経験則が、この言葉には凝縮されています。
規制をすべて敵視するのでもなく、無条件に守旧化するのでもない。
公共性という視点を踏まえ、どの規制が必要で、どの規制が見直されるべきかを冷静に見極める。その姿勢こそが、成熟した市場経済には欠かせません。
「三方よし」は、過去の遺産ではありません。
短期利益が称賛されがちな時代だからこそ、いまなお有効な、持続可能な経営の指針なのだと思います。

