「違法外国人」論がすれ違う理由――公平性と差別はどう区別されるのか

近年、「違法外国人は、外国人である前に違法だ」という主張をネット上で目にする機会が増えました。
この言葉には、一理あると感じる人も多いでしょう。
実際、国籍にかかわらず、法に反する行為や周囲に迷惑をかける行為が許されるべきではないのは当然です。
「迷惑をかける人が近くに住んでいれば困る」「日本人であれ外国人であれ同じ基準で扱うべきだ」という感覚自体は、公平性を求める自然な感情だと思います。

しかし注意すべきなのは、この議論が、論点の整理を誤ると、本人が否定したいはずの「差別的に見える構図」を、意図せず強めてしまう危険性をはらんでいることです。

まず、「違法」と一言で言っても、その中身はさまざまです。
不法滞在のような出入国管理法上の問題、軽微な行政違反、刑法犯罪、さらには単なる生活上の迷惑行為――これらは法的にも社会的にも性質が異なります。本来は切り分けて考えるべきものです。

ところが議論の中では、
「違法」→「迷惑」→「危険」
といった連想が無意識に重ねられがちです。その結果、「違法外国人」という言葉が、特定の行為をした個人ではなく、外国人一般のイメージにすり替わってしまいます。
この点にこそ、差別だという批判を受けるスキがあります。

重要なのは、行為を理由に批判することと、属性を理由に排除することは別だという点です。
違法行為や迷惑行為をした個人を問題にすることは、差別ではありません。
一方で、「外国人だから」「違法外国人という集団だから」と一括りにして語れば、それは属性への評価になってしまいます。

また、「共生」という言葉も誤解されがちです。
共生とは、犯罪や違法行為を黙認することではありません。
本来は、法の執行や行政対応をきちんと行い、社会的な摩擦をどう減らすかを考える政策的な概念です。
「我慢しろ」「受け入れろ」という感情論とは別物です。

公平であろうとするなら、
国籍ではなく、行為と制度を基準に議論する必要があります。
誰がどの法律に違反しているのか。
それに対して、国はどのような手続きを用意し、どこに課題があるのか。
この整理を飛ばしたまま感情だけで語れば、「公正」を掲げたつもりでも、結果的に分断を深めてしまいます。

問題は外国人そのものではなく、制度と運用、そして言葉の使い方です。
冷静にそこへ焦点を戻すことが、建設的な議論への第一歩ではないでしょうか。

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