なぜ日本のマスコミは同じ言説を繰り返すのか――全共闘世代以後に再生産された“仕事の流儀”

はじめに――「人は去っても、型は残る」

1970年安保闘争や全共闘運動に関わった当事者たちは、2020年代の現在、すでに定年退職し、マスコミ業界の第一線からは退いているはずです。
それにもかかわらず、日本の新聞・テレビ・出版の世界では、半世紀前と似た問題意識、似た言説の構図、そして似た「仕事の流儀」が繰り返されているように見えます。
なぜでしょうか。本当に「同じ人たち」が居座り続けているのでしょうか。それとも、もっと別の要因があるのでしょうか。
本稿では、「思想の継承」ではなく、「制度・評価軸・職業倫理としての再生産」という観点から、なぜマスコミの空気が世代交代を経ても変わりにくいのかを整理していきます。

世代が交代しても残る「編集・報道の型」

まず確認しておくべきなのは、現在の現場で働いている記者・編集者の多くは、安保闘争や全共闘運動をリアルタイムでは体験していない世代だという事実です。多くは、その時代を「歴史」として、あるいは先輩からの語りとして知っているにすぎません。
それでもなお、
・権力批判は常に正義であるという前提
・国家・政府・企業への根源的な不信
・「弱者」と位置づけられた側に無条件で寄り添う姿勢
・愛国や保守的価値観への過敏な警戒
といったフレームは、今なおマスコミの現場で強く共有されています。
これは、個々人の思想信条というよりも、「こう書くのが記者らしい」「これが良識的な論調だ」という業界内の共通フォーマット、すなわち “型” として定着しているからです。

OJTと徒弟制が生む無自覚な継承

日本のマスコミ業界では、記者教育や編集教育が体系化された座学よりも、OJT(現場教育)に大きく依存しています。新人は、先輩記者の書き方、企画の通し方、デスクの評価基準を見よう見まねで学びます。
この過程で引き継がれるのは、必ずしも明文化された思想ではありません。
「このテーマは叩いていい」
「ここで政府側の反論を強く載せると角が立つ」
「この手の言い回しは評価される」
といった、暗黙の了解や空気感です。
結果として、安保・全共闘世代が直接教えた弟子だけでなく、そのさらに下の世代へと、価値判断の癖や問題設定の方向性が連鎖的に受け継がれていきます。ここでは、思想的自覚は必須ではありません。「こうすると評価される」「こうすると出世しにくい」という経験則が、型を温存させるのです。

評価軸が方向性を固定する

もう一つ重要なのが、社内評価とキャリア形成の問題です。
マスコミでは、
・権力批判的なスクープ
・政府の失策を強調する特集
・社会的に「問題」とされやすいテーマ
が、評価や名声につながりやすい傾向があります。一方で、
・制度の功罪を冷静に整理する記事
・国家や安全保障を肯定的に扱う論考
・世論に逆らう問題提起
は、「角が立つ」「社のカラーに合わない」と判断されがちです。
こうした評価軸が存在する限り、個々の記者がどれほど世代的に新しくても、合理的に行動すれば似た論調に収斂していきます。これは思想というよりも、職業倫理と処世術の問題です。

「“リベラル” であること」が職業規範になった結果

戦後日本のマスコミでは、「権力を監視するリベラルな存在であること」自体が、記者のアイデンティティとして確立されてきました。その原型が、安保闘争や全共闘期の高揚の中で形成されたことは否定できません。
しかし、問題はその後です。
本来、リベラリズムは多様な価値観を許容し、議論を開く思想です。
ところが、それが「反権力」「反国家」「反保守」という定型に固定化されると、別の意味での硬直が生まれます。
結果として、異なる立場の議論を紹介すること自体が「逸脱」とみなされ、自己検閲が働く環境が出来上がっていきました。これが、世代交代を経ても言論の空気が変わりにくい理由の一つです。

おわりに――問われているのは思想ではなく構造です

ここまで見てきたように、現在のマスコミの言説傾向を、特定世代の思想や陰謀として説明するのは適切ではありません。
問題の核心は、「人が去っても、型が残る」構造にあります。
教育の仕方、評価制度、職業倫理、業界内の暗黙の了解――これらが組み合わさることで、同じような言説が無自覚に再生産され続けてきました。

もし日本の言論空間をより健全で多層的なものにしたいのであれば、特定の思想を批判するだけでは不十分です。
問うべきなのは、どのような記事が評価され、どのような視点が排除されてきたのか、その制度的な前提そのものではないでしょうか。
世代ではなく、構造を見ること。そこからしか、実質的な変化は始まらないのです。

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