“排除”と“統制”を混同する危うさ― 日本社会が踏み外しやすい分岐点

はじめに

前編『選挙はマーケティングなのか――参政党現象が突きつける日本民主主義の課題』(2026年1月26日付け投稿記事)では、参政党現象を一例として、選挙や政治が「マーケティング化」し、分かりやすさや参加している気分が優先されやすくなっている現状を整理しました。
本稿はその続編として、そこで触れきれなかった、もう一段踏み込んだ論点――「排除」と「統制」が混同されやすくなっている危うさについて考えます。

この「排除」と「統制」をどう区別し、どう線引きするかというテーマは、扱い方を誤ると、すぐに
「排外主義か、人権擁護か」
という単純な対立構図に回収されがちです。
しかし現実の政策や社会運営は、そんな二択で片づくほど単純ではありません。
だからこそ本稿では、誰かを断罪することではなく、どこで線を引くべきかを考えるための視点を整理していきます。

前編(第一弾)で何を問題にしたのか(簡潔な振り返り)

前編(第一弾)で問題にしたのは、特定の政党や主張の是非そのものではありませんでした。
焦点を当てたのは、次のような構造です。
・強い言葉が感情を刺激し
・分かりやすさが思考を代替し
・「参加している気分」が熟慮を上書きしてしまう
こうした傾向が、SNS時代の政治全体に広がっていること。
そして、「誰が正しいか」ではなく、「なぜその言葉が今、強く届くのか」を考える視点の重要性でした。

この前提を踏まえたうえで、次の論点に進みます。

なぜ議論が「排外主義 vs 人権擁護」に単純化されてしまうのか

移民政策や外国人受け入れ、治安、社会秩序の話題になると、議論はしばしば
「排外主義か、人権擁護か」
という二項対立に押し込められます。
しかし、この構図自体が、かなり乱暴です。

現実の政策判断では、
・社会秩序をどう維持するか
・法の下の平等をどう守るか
・現場の負担をどう現実的に回すか
といった複数の要素を、同時に考えなければなりません。
どちらか一方を選べば済む話ではありません。

それでも議論が単純化されるのは、
・敵と味方を明確に分けたほうが感情を動員しやすく、
・複雑な説明より善悪の物語のほうが拡散しやすい、
という情報環境の性質が大きく影響しています。

「合法な統制」と「違法な排除」を分ける実際の基準

ここで、言葉を整理しておきます。
国家が、
・入国管理を行う
・在留資格や就労条件を定める
・法律違反に対して処分を行う
こうした行為自体は、民主国家においても正当で合法な「統制」です。
これをすべて排外主義と呼ぶのは、現実的ではありません。

問題になるのは、
・特定の国籍や民族、宗教といった属性そのものを理由に
・一律に権利を制限したり
・法的根拠なく排除したりする場合です。

重要な基準は、実は比較的シンプルです。
判断の根拠が、個人の行為や法的地位に置かれているか、属性に置かれているか。
この違いが、統制と排除を分ける分岐点になります。

日本社会が陥りやすい二つの極端(放置と過剰反応)

日本社会は、この問題に関して二つの極端に振れやすい傾向があります。
一つは、問題の放置です。
トラブルや摩擦が起きていても、「触れると差別と言われるのではないか」という不安から、議論や対策が先送りされる。
その結果、不満が水面下で蓄積していきます。

もう一つは、過剰反応です。
溜まっていた不満が噴き出すと、
「一律に締め出せ」
「厳しくすればすべて解決する」
といった短絡的な処方箋が支持を集めやすくなります。

どちらも、短期的には分かりやすいですが、長期的には社会の安定を損ないます。

「それは理想論だ」「現場を知らない」という反論について

ここまで読んで、「それは理想論ではないか」「現場の大変さを分かっていない」と感じる方もいるかもしれません。
その感覚自体は、決して的外れではありません。
現場では、
・制度の穴を突いた行為
・対応する側の負担の偏り
・ルールを守らない人が目立ちやすい現実
こうした具体的な問題が、日々積み重なっています。
それを知っていればこそ、「原則論だけでは回らない」と感じるのも自然です。

ただ、本稿で述べているのは、現場の困難を否定する理想論ではありません。
むしろ、現場の負担が限界に近づいたときほど、
感情的な一括排除か、問題の放置か
という両極端に振れやすくなる、その危うさを指摘しています。

基準が曖昧なままの強硬策は、結果的に
「誰がどこで線を引くのか分からない社会」
を生み出します。
それは最終的に、現場で判断を迫られる人の負担を、さらに重くします。

では、どこに現実的な着地点があるのか

現実的な着地点は、「何もしない」でも「一気に締め上げる」でもありません。
必要なのは、
・ルールを明確にすること
・違反には例外なく対応すること
・その代わり、属性ではなく行為で判断すること
という、地味ですが不可欠な原則を、粘り強く守ること
です。

派手なスローガンにはなりませんし、感情的なカタルシスも乏しいかもしれません。
しかし、この地道な作業を省略した社会ほど、後になって大きな代償を払うことになります。

おわりに

「排除」と「統制」を混同することは、短期的には分かりやすく、スッキリするかもしれません。
しかし長期的には、
・法の信頼性を損ない
・分断を深め
・最終的には、自分自身の自由をも縮めていきます。

重要なのは、どちらの立場に立つかではありません。
どこで線を引くのかを、感情ではなく基準で考え続けることです。
前編で述べたように、完璧な答えを出す必要はありません。
ただ、「今、自分はどちらの極端に引っ張られていないか」と問い直す余地を残すこと。
その姿勢こそが、日本社会が踏み外しやすい分岐点で、私たちを踏みとどまらせる力になるのではないでしょうか。

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