本稿は、2026年1月30日付け記事『感情的言説とどう向き合うか――民主主義を衆愚に堕とさないための線引きと対話』=前編(態度編)に続く後編(制度編)として、SNSなどで噴出する雇用不安や外国人労働者をめぐる議論を、感情論から切り離し、制度の問題として整理することを目的とします。
前編(態度編)では、「どのような態度で向き合うべきか」「どこで線を引き、どこで対話可能か」を論じました。本稿では一歩進めて、では何が制度として欠けているのかを冷静に見ていきます。
雇用政策と労働市場――不安の出発点はどこにあるのか
多くの不満や不安の根底には、「働きたいのに安定して働けない」「努力しても報われない」という実感があります。
これは個人の怠慢ではなく、日本の雇用政策と労働市場の構造に起因する部分が大きい問題です。
日本では長年、
・正規雇用と非正規雇用の大きな格差
・年功序列・長期雇用を前提とした硬直的制度
・転職や再訓練への支援の弱さ
が放置されてきました。
その結果、企業は「足りない部分」を低コスト労働で補う方向に流れやすくなり、労働者側には慢性的な不安が蓄積されます。
ここで問うべきなのは、
なぜ国内の労働力が適切に活かされないのか
という制度設計の問題であり、外国人労働者そのものではありません。
外国人労働者受け入れ制度――是非ではなく条件の問題
外国人労働者の受け入れをめぐる議論は、賛成か反対かという二項対立に陥りがちです。しかし本来は、
どのような条件で、どの範囲まで、どの責任主体のもとで受け入れるのか
という制度論で語られるべきものです。
現行制度では、
・受け入れ目的が曖昧なまま人数だけが増える
・日本語教育や生活支援が十分に整備されない
・労働条件の監督が不十分
といった問題が重なり、現場の摩擦が増幅されやすくなっています。
これにより、地域社会の負担や職場の混乱が「外国人が問題だ」という誤った形で認識されてしまいます。
問題の核心は、管理と支援の制度が弱いことにあります。
国・企業・自治体の責任分担を曖昧にしない
制度不信が感情論へと転化する大きな要因は、責任の所在が見えないことです。
本来、
・国は法制度の設計と最低基準の確保
・企業は適正な雇用と労働環境の整備
・自治体は地域での生活支援と調整
という役割を担うべきです。
しかし現実には、
・国は企業任せにし
・企業はコスト削減を優先し
・自治体は権限も財源も不足したまま対応を迫られる
という構図が続いています。
この結果、現場で負担を感じる人ほど「誰も責任を取っていない」と感じやすくなります。
制度を語るとは、
この責任分担を明確にし、どこに改善余地があるのかを具体的に示すこと
でもあります。
「不安」をどう制度で受け止めるか
不安や不満は、感情として現れます。
しかし、それを放置すれば、排外的言説や分断へと向かいます。
民主主義国家に求められるのは、
不安を「個人の感情」で終わらせず、制度の課題として吸収する仕組み
です。
具体的には、
・再教育・職業訓練への公的支援
・最低賃金や労働条件の実効性確保
・外国人労働者受け入れに伴う地域支援策
といった、可視化された対策が不可欠です。
「きちんと対策が取られている」と社会が示せれば、不安は過度な敵意に変わりにくくなります。
感情論から制度論へ視点を戻すために
感情的な言説が拡散しやすい時代だからこそ、必要なのは冷静な制度論です。
前編(態度編)で述べたように、
・感情そのものを否定しない
・しかし感情に議論を支配させない
この二つを両立させるには、話題を制度の欠陥や改善点へと戻し続ける姿勢が欠かせません。
誰かを排除することで安心を得るのではなく、
排除しなくても成り立つ制度をどう作るか
この問いこそが、民主主義的な議論の出発点です。
おわりに――前編・後編を通じて
前編(態度編)では、感情的言説にどう向き合うかを考え、
後編(制度編)では、その背後にある制度の歪みを整理しました。
感情が噴き出す社会であっても、制度まで思考を進めることができるかどうか。
そこに、衆愚政治と成熟した民主政治の分かれ目があります。
私たちにできるのは、感情を煽る言葉に同調することではなく、
不安を制度の言葉に翻訳し続けること
なのだと思います。
