近年、政治と宗教団体の関係が問題になるたびに、多くの国民はこうした感覚を抱いてきました。
「もしこれが自民党議員だったら、マスコミはもっと激しく追及しているのではないか」。疑惑の段階でも連日報道され、説明責任を果たすよう迫られる――そんな光景が、私たちの記憶には確かにあります。
ところが今回、新党「中道改革連合」の野田共同代表と、旧統一教会を母体とする国際勝共連合との関係が取り沙汰された際、同じ種類の違和感が広く共有されました。後援会の設立や応援歌の存在、さらには本人が写真への写り込みを認めたという事実があるにもかかわらず、報道は散発的で、深掘りも限定的です。
この温度差は、単なる偶然なのでしょうか。それとも、私たちが無意識に見過ごしてきた「報道の二重基準」を映しているのでしょうか。
本稿では、この違和感を感情論で片付けるのではなく、なぜマスコミが無意識のうちにこうした構造に陥るのかを整理し、最後に、有権者がどのような距離感で報道と向き合うべきかを考えていきます。
事実関係の整理――「疑惑段階」をどう扱うか
まず押さえておくべき事実があります。
ある野党系新党の共同代表である野田氏について、旧統一教会系とされる政治団体との関係を示す写真が公開されました。そして最新の報道では、野田氏本人がテレビ番組の中で、その写真に写っているのが自分であることを認めています。
一方で、野田氏は、
・当時の詳しい経緯については記憶が曖昧であること
・現在は関係がないと考えていること
なども併せて説明しています。
ここで重要なのは、現時点では違法行為が確定しているわけではないという点です。
しかし同時に、これは単なる噂や匿名情報の段階を超え、
・写真という客観的資料が存在し
・本人が写っている事実を認めている
という「疑惑としては相応に具体性を持った段階」に入っています。
与党議員の場合との明確な非対称
この点を踏まえると、どうしても比較せざるを得ません。
過去、与党議員や政府関係者が旧統一教会との関係を疑われた際、マスコミは次のような姿勢を取り続けてきました。
・疑惑の段階であっても
・証拠が完全に揃っていなくても
・本人に対し
「説明責任を果たすべきだ」
「疑念が払拭されていない」
と、連日追及する。
これは評価ではなく、実際に行われてきた報道の事実です。
ところが今回のケースでは、
・写真を本人が認めたにもかかわらず
・大手メディアでの継続的な追及は見られず
・「説明責任」という言葉も、ほとんど使われていません。
この差を「単なる偶然」や「慎重さの違い」だけで説明するのは、正直なところ難しいと言わざるを得ません。
なぜマスコミは無意識に二重基準に陥るのか
ここで重要なのは、これを単純な陰謀論として片付けないことです。
多くの場合、問題はもっと構造的で、無意識的です。
(1)「権力監視」の自己定義の歪み
日本のマスコミでは、長年の積み重ねの中で、
権力=与党・官邸
野党=権力を監視する側
という図式が半ば固定化しています。
その結果、野党政治家を「監視対象」として見る感覚が弱まり、追及のハードルが自然と下がってしまいます。
(2)取材アクセスへの依存
与党を批判する記事は「権力監視」として正当化しやすい一方、野党、特に左派系政治家は日常的な取材源でもあります。
人間である以上、「情報をくれる相手」を強く叩くことへの心理的抵抗が生まれます。
(3)編集部内の同質性
都市部・高学歴層に偏りやすい編集部では、価値観が近い政治家に対して無意識の親近感が生まれがちです。
これは善悪の問題というより、組織文化の問題です。
(4)過去の成功体験
旧統一教会問題で与党を強く追及した報道は、世論の支持を得ました。
この成功体験が、「この構図は正しい」「この方向は安全だ」という学習を生み、逆方向への適用を鈍らせます。
結果として、意図せず「非対称な報道」が繰り返されます。
それは偏向報道なのか
「偏向報道かどうか」は慎重な言葉遣いが必要ですが、少なくとも次のことは言えます。
・同じ疑惑段階
・同じ程度の事実関係
にもかかわらず、
・一方には説明責任を強く求め
・もう一方にはそれを求めない
この状態が続けば、二重基準との批判は論理的に成立します。
問題は、特定の政治家が「悪い」かどうかではありません。
国民が判断するための材料が、平等に提供されていないことこそが問題です。
有権者はどう距離を取るべきか
では、私たち有権者はどうすればよいのでしょうか。
重要なのは、マスコミを全面的に信じるか、全面的に否定するか、という二択ではありません。
報じられた内容だけでなく
「なぜこれは大きく扱われていないのか」を考える
疑惑報道を
「今どの段階にあるのか」
自分で整理する
与党・野党を問わず
「これが別の立場の政治家なら、同じ扱いになるか」
と自問する
情報が不十分なら
無理に結論を出さず、判断を保留する
こうした「距離を取る技術」こそが、成熟した有権者の態度ではないでしょうか。
結論――これは誰の問題なのか
本稿で見てきたのは、特定の政党や政治家の是非ではありません。
問題の核心は、同じ性質の疑惑であっても、対象となる政治的立場によって、報道の強度や問いの立て方が変わってしまうという「構造」です。
この構造が放置されれば、最終的に不利益を被るのは、与党支持者でも野党支持者でもなく、私たち有権者です。
なぜなら、説明責任を果たすべき場面が恣意的に選別されるとき、「何を基準に政治を評価すればよいのか」という判断材料そのものが歪められてしまうからです。
マスコミが自らを「権力監視者」と位置づけるのであれば、その監視は、権力を持つ可能性のあるすべての政治勢力に対して等しく向けられるべきです。
そうでなければ、報道は無意識のうちに政治的プレイヤーの一部となり、「国民の知る権利」から離れていきます。
だからこそ、この問題は「マスコミの問題」であると同時に、「有権者自身の問題」でもあります。
報道の温度差に気づいたとき、それを見過ごさず、一歩引いて問い直す。
その積み重ねこそが、民主主義を空洞化させないための、ささやかですが確かな防波堤になるはずです。
