外国人犯罪に厳しくするのは共生に反するのか?-「選ばれる日本」という言葉の裏に潜む論理のすり替えを検証する

「外国人犯罪は増えているのか」
「医療費未払いや脱税への対策はどうなっているのか」
「外国人優遇ではないのか」
――こうした疑問が、いまSNSやテレビ番組で頻繁に取り上げられています。

その一方で、
「来日外国人の日本での犯罪や脱税、医療費未払いに厳しくすることは、共生社会に反するし、日本が外国人に選ばれなくなる」
という意見も見られます。

果たして、外国人による犯罪や脱税、医療費未払いへの厳格な対応は、本当に「共生社会」に反するのでしょうか。
また、「選ばれる日本」という観点から、法の厳格な適用はマイナスに働くのでしょうか。

本稿では、感情論やレッテル貼りを排し、
外国人政策・共生社会・法の支配という三つの視点から、論理を整理して検証します。

「差別」と「法の適用」の混同

まず最も重要なのは、次の区別です。
 外国人であることを理由に厳しく扱う
  → これは差別であり、許されません。
 誰であれ犯罪や脱税、医療費未払いといった違法行為に対して厳正に対応する
  → これは法治国家として当然です。
両者はまったく別の問題です。

違法行為への厳正な対処を「共生への敵対」と位置づけるならば、それは法の支配そのものを否定する発想に近づきます。
真の
共生社会とは、「ルール違反にも寛容な社会」ではありません。
むしろ、「ルールを共有し、そのもとで安心して暮らせる社会」です。

「選ばれる日本」という発想の危うさ

次に問題なのは、「厳しくすると日本が外国人に選ばれなくなる」という部分です。
ここには、国家の役割を「好かれる存在」として捉える発想が見えます。

しかし、法制度はマーケティング戦略ではありません。
もし違法行為への対応を「外国人にどう思われるか」で調整するならば、それは法の公平性を損ないます。

国家が守るべきなのは、「人気」ではなく「秩序」です。
むしろ、多くの人は、
・ルールが明確であること
・公平に運用されていること
・制度が持続可能であること
を重視します。

法の執行が曖昧な国が、長期的に信頼を得られるとは限りません。

本当に共生を壊すものは何か

共生社会にとって本当に危険なのは何でしょうか。
それは、
・不公平感の放置
・ルール違反の黙認
・「外国人だから仕方ない」という特別扱い

です。
このような状況が続けば、日本人の側に不満が蓄積し、結果として外国人への感情も悪化します。
それは共生を強めるどころか、むしろ分断を深めます。

真の共生とは、
権利を守ることと、義務を共有することの両立
です。
どちらか一方だけでは成立しません。

議論を封じるレッテル貼りの問題

さらに見逃せないのは、「厳しくする=共生に反する」という構図です。
このように定義してしまうと、制度改善や運用見直しの提案そのものが、道徳的に劣ったもののように扱われます。
それは健全な政策議論を萎縮させます。
・制度の穴はないか
・国際比較でどうか
・持続可能性は確保できるか
こうした実務的な議論を、道徳的レッテルで封じることは、民主社会にとって健全とは言えません。

※これは「えせ共生」と言うべきでしょう。

結論:共生とは規範の共有である

違法行為に対して厳正に対処することは、
・排外主義でも
・差別でも
・共生への敵対でもありません。

それは、法治国家の基本です。

共生社会とは、
規範を曖昧にする社会ではなく、
規範を共有できる社会です。

「選ばれる日本」という言葉が魅力的に響くとしても、
そのために法の公平性を揺るがせるなら、それは長期的に信頼を損ないます。

共生を守るために必要なのは、
感情的な善意ではなく、
冷静な制度設計と、法の一貫した運用なのです。

真の共生を守るために、あえて問う

ここで改めて確認しておきたいことがあります。
もし、
・違法行為への厳正な対応を「共生に反する」と定義するならば、
・法の公平な適用を「外国人に選ばれなくなる要因」とみなすならば、
それは結局、次のような前提を置くことになります。
 法の厳格さよりも、対外的な印象を優先する。

しかし、法治国家の根幹は、
誰であれ、同じルールのもとにある」という原則です。
この原則が揺らげば、社会の信頼基盤は崩れます。
信頼が崩れれば、共生もまた成立しません。

共生とは、規範を曖昧にすることではありません。
規範を共有することです。
その共有のためには、
・権利は守る
・義務も明確にする
・違反には公正に対応する
という一貫性が不可欠です。

本当に問われるべきなのは、
「厳しくするかどうか」ではなく、
どうすれば公平さと信頼を同時に守れるか
という制度設計の問題です。
感情的な善意や印象論ではなく、
原理に立ち返った冷静な議論こそが、
日本社会にとって必要なのではないでしょうか。

【付記】

本稿で取り上げたような、
「来日外国人の日本での犯罪や脱税、医療費未払いに厳しくすることは共生社会に反し、日本が外国人に選ばれなくなる」
という趣旨のいわば “えせ共生” の発言が、十分な論点整理や反対意見の提示を伴わないままテレビ番組で繰り返され、あるいは国会議員が党派を問わず同種の発言を重ねる状況が続くとすれば、
今後問題となるのは「賛否」そのものではなく、信頼の問題であると考えます。

社会は、意見の多様性によって成り立っています。
しかし同時に、法の公平性や制度の持続可能性といった基盤については、丁寧な議論が尽くされているという前提があってこそ、公共的言論への信頼が保たれます。

もし、違法行為への厳正な対処を提起すること自体が、道徳的に問題があるかのような印象で語られ続けるならば、多くの国民は違和感を抱くでしょう。
そしてその違和感が繰り返し無視されるならば、やがてそれは静かな不信へと変わります。

信頼は、一度失われると容易には回復しません。
発言者個人への信頼だけでなく、番組や報道機関、さらには政治全体への信頼にまで影響が及ぶ可能性があります。

言論の自由は最大限尊重されるべきです。
しかし、影響力を持つ立場にある者の言葉は、社会の信頼資本を消耗させることもあれば、積み上げることもあります。

もし今後も同様の言説が検証や対話を伴わずに提示され続けるならば、萎縮ではなく反発が広がり、結果として信頼を損なうのは、他ならぬ発言者や媒体自身である――その可能性を、真摯に考える必要があるのではないでしょうか。

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