深夜、突然、胸が痛くなる。
息が苦しい。めまいがする。
そのとき私たちは、自分で判断できるでしょうか。
これは命に関わる症状なのか、それとも一時的な体調不良なのか。
近年、「救急車の有料化」を求める声の根拠として、ある数字がよく引用されます。
救急搬送された患者の約47%が「軽症」だったという統計です。
この数字を見ると、「軽症なら救急車を呼ぶべきではない」「だから有料化すべきだ」という議論が生まれるのも理解できます。
しかし、この数字には一つの重要な前提があります。
それは、「軽症かどうかは、病院に着いて医師が診て初めて分かる」という事実です。
もしそうだとすれば、問題は「軽症者が救急車を呼んだこと」なのでしょうか。
それとも、私たちが迷ったときに頼れる医療の入口が十分に整っていないことなのでしょうか。
「軽症だった」という結果と「呼ぶべきではなかった」は同じではない
救急医療では、「結果として軽症だった」ことと、「救急車を呼ぶべきではなかった」ことは、本来別の問題です。
胸の痛みは、胃の不調かもしれません。
息苦しさは、過換気かもしれません。
めまいは、単なる体調不良かもしれません。
しかし同じ症状が、時には
・心筋梗塞
・脳卒中
・肺塞栓
といった命に関わる病気のサインであることもあります。
医療の専門知識がない一般の人にとって、その違いを判断することはほとんど不可能です。
だからこそ、救急医療という制度が存在しています。
ところが、「軽症47%」という結果だけが独り歩きすると、「救急車の不適切利用が増えている」という印象が広がりやすくなります。
しかし、実際のデータは少し違う姿を示しています。
救急搬送が増えている本当の理由
消防庁の統計によれば、救急搬送された患者のうち65歳以上の高齢者が約63%を占めており、その割合は年々増え続けています。
つまり、救急搬送の増加の大きな要因は、「モラルの低下」ではなく、社会の高齢化にあると考えられます。
さらに興味深いことに、「軽症者の割合」はむしろ減少しています。
約20年前には51%だった軽症の割合は、現在では47%程度にまで下がっています。
もし救急車が本当に「タクシー代わり」に使われているのだとすれば、この割合は増えているはずです。
しかし現実には、必ずしもそうなってはいません。
このことは、現在の救急車問題が単純な「利用者のモラル」の問題ではなく、医療制度そのものの構造と深く関係している可能性を示しています。
海外では「救急車を呼ぶ前」に医療判断がある
この問題を考えるうえで参考になるのが、海外の制度です。
フランスでは、救急番号「15」に電話をすると、まず医療知識を持つオペレーターが対応し、その後必ず医師が症状を確認します。
医師が電話で症状を聞いたうえで、救急車が必要かどうかを判断する仕組みになっています。
イギリスにも「NHS111」という電話サービスがあり、看護師などの医療スタッフが電話で症状を聞き、救急車、救急外来、かかりつけ医、薬局など、適切な医療機関へ振り分けます。
これらの制度に共通しているのは、「迷っている人の最初の相談相手が医療者である」という設計です。
日本の議論は「出動した後」に集中している
一方、日本で語られる議論の多くは、救急車が出動した後の問題です。
・軽症なら有料にするべきか
・不必要な出動を断るべきか
・病院到着後に費用を請求するべきか
つまり、議論の焦点は「出動した後の対応」に置かれています。
しかし、本当に重要なのは、その前段階かもしれません。
すなわち、「救急車を呼ぶべきか迷ったとき、誰が最初に判断するのか」という問題です。
深夜、急に体調が悪くなったとき、多くの人は不安になります。
この症状は危険なのか、それとも様子を見てもよいのか。
もし電話口に医療の専門家がいれば、適切な助言が得られるかもしれません。
救急車を呼ぶ必要がない場合でも、安心して別の医療機関に向かうことができます。
しかし、そのような制度が十分に整っていない場合、人々は最も確実な方法を選ぶことになります。
それが「救急車を呼ぶ」という行動です。
問われているのは制度の設計である
この意味で、救急車問題の本質は、
「救急車を呼ぶ人の判断」を責めることではありません。
むしろ重要なのは、
人が迷ったときに支える制度をどのように設計するかという問題です。
救急車の有料化を議論すること自体が間違っているとは言えません。
しかし、その前に考えるべきことがあります。
それは、
人が迷ったとき、最初に相談できる医療の入口をどう整えるのかという問いです。
救急車問題の本質は、
「呼ぶ人の判断」を責めることではありません。
人が判断できないとき、社会がどのように支える仕組みを用意するのか。
その問いにどう答えるかが、
これからの救急医療の姿を決めることになるのではないでしょうか。

