教育の中立性は誰が守るのか―「君が代起立問題」から考える思想の自由と公教育の民主的統制

新常識

「思想の自由」は絶対に守られるべきです。
しかし、公教育は教員個人の思想に委ねてよいのでしょうか。

なぜ「君が代起立問題」は議論になるのか―入学式・卒業式で教員が起立しないと処分される理由

入学式や卒業式で国歌「君が代」が斉唱されるとき、教員が起立しなかったことを理由に処分を受ける――。
この問題は長年、日本社会で議論を呼んできました。
「思想・良心の自由が侵害されているのではないか」という意見がある一方で、「公教育の場で職務命令に従わないのは問題ではないか」という声もあります。
この論争は、単なる学校の規律の問題ではありません。
そこには、
・思想・良心の自由
・表現の自由
・公教育の政治的中立

という、民主主義社会の根幹に関わる原理が交差しています。
では、この問題はどのように整理すべきなのでしょうか。

思想・良心の自由の核心―憲法が守る「内心の自由」とは何か

日本国憲法19条は
 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
と定めています。
この自由の核心は、個人の内心そのものです。
人がどのような思想や信条、歴史観を持つかについて、国家が介入することは決して許されません。
この領域は自由権の中でも特に強く保護される、絶対不可侵の領域です。

しかし、思想が外部に表れた行為は事情が異なります。

思想の表明はどこまで自由か―表現の自由と「公共の福祉」

思想が外部に表れた場合、それはもはや純粋な「内心」ではなく、表現行為になります。
表現行為は憲法21条によって広く保障されますが、同時に
・公共の福祉
・他者の権利
・社会秩序
との調整を受ける可能性があります。
つまり憲法秩序は
内心の自由は絶対に守るが、思想の表明行為は一定の制約を受け得る
という構造になっています。

学校での君が代起立は思想表明なのか―教員側の主張と行政側の考え方

学校の入学式や卒業式で行われる国歌斉唱の際の起立について、一部の教員は
「国家への敬意を示す思想的行為であり、強制は思想の自由の侵害である」
と主張してきました。
これに対して行政側は、
・学校儀礼の一部
・公務員としての服務規律
・教育活動の秩序維持
という観点から、起立斉唱を職務上の行為と位置づけています。
つまり争点は、
起立斉唱を思想表明と見るのか、それとも儀礼的な職務行為と見るのか
という点にあります。

最高裁判所の判断―君が代起立命令は憲法違反なのか

この問題について、最高裁判所は2011年の判決で次のように判断しました。
・起立斉唱には一定の思想的意味が含まれる可能性はある
・しかし、その性質は主として儀礼的・形式的な行為である
・したがって、校長による起立斉唱の職務命令は憲法19条に違反しない
つまり最高裁は、
思想そのものを強制しているわけではない
という整理を採りました。

ただし処分は無制限ではない―最高裁が示した比例原則

もっとも、最高裁は同時に重要な点も指摘しています。
処分については、
・思想への影響を考慮する必要がある
・機械的に重い処分を科すことは許されない
とし、場合によっては停職などの重い処分を違法と判断した例もあります。
つまり、
職務命令は合憲だが、懲戒は比例原則
に従うべき
という立場です。

比例原則
一言で言えば、「目的に対して、手段は必要最小限にとどめるべき」という考え方。
君が代問題でいうと
 起立しない → 一定の指導や軽い処分はあり得る
 何度も繰り返した → 少し重い処分もあり得る
 いきなり重い停職 → 重すぎる可能性がある
という判断になります。

教育の中立性は誰が守るのか―国家か、教員個人か

ここでさらに根本的な問題が生じます。
教育の中立性を誰が担保するのかという問題です。
もし
・国家が責任を持つのか
・教員個人の自由に委ねるのか
という二択を迫られるならば、教育の中立性は国家が制度として担保すべきだと考えます。

民主主義社会では教育は誰が統制するのか―公教育と民主的統制

その理由は、民主主義の統制原理にあります。
国家や政府は
・選挙
・国会
・世論
・司法
といった制度
を通じて、国民による民主的統制を受けています。
教育政策に問題があれば、国民は
・選挙で政権を交代させる
・政策変更を求める
という形で意思を反映させることができます。

これに対して、個々の教員の思想や教育内容には、同じ意味での民主的統制は働きません。
実際、戦後の日本では、教職員の労働組合である日本教職員組合(日教組)が、当時の革新・左派政党と連携しながら教育政策や教育内容に強い影響力を持った時期がありました。
その活動については、
・教育の民主化に貢献したという評価
・政治的立場を教育現場に持ち込んだという批判
の双方が存在しますが、
少なくともこの歴史は、教育が特定の思想や政治的立場と強く結びつく危険性を示した事例としてしばしば議論されてきました。

もし教育現場が教員個人や特定の思想的立場に委ねられるならば、公教育は容易に政治的影響を受けてしまいます。
その意味で、教育の中立性を守るためには、個人の思想ではなく、民主的統制の下に置かれた制度としての教育運営が必要だと言えるでしょう。

この原則は高校教育にも及ぶ―実質的義務教育としての高校

この原則は義務教育に限られるものではありません。
小学校と中学校は法的な義務教育ですが、日本では高校進学率がほぼ100%に近く、高校教育は実質的に準義務教育といえる社会的地位を持っています。
したがって、
教育の制度運営は民主的統制の下に置くべきであり、教員個人の思想に委ねてはならない
という原則は、
・小学校
・中学校
・そして高校
まで含めて適用されるべきものだと考えます。

結論―思想の自由と公教育の中立性をどう両立させるか

以上を踏まえると、民主主義社会における公教育の原則は次のように整理できます。
①思想・良心の自由(内心)は絶対に守られる。
②思想の表明行為は社会との関係で一定の制約を受け得る。
③公教育の制度運営は
民主的統制の下に置かれる。
④教育現場を
教員個人の思想に委ねるべきではない。
学校儀礼における起立斉唱の問題も、この枠組みの中で理解することができます。

教員がどのような思想や歴史観を持つかは、完全に自由です。
しかし公教育の場においては、個人の思想ではなく、民主的に決定された制度と規律が優先されるという原則が必要です。
それは思想の自由を否定するものではありません。
むしろ、公教育を特定の思想から守るための制度的な民主主義の仕組みだと言えるでしょう。
公教育を特定の思想から守る責任は、国家だけでも、教員だけでもありません。
それは最終的に、民主主義の主権者である私たち一人ひとりが負っている責任なのです。

\ 最新情報をチェック /

PAGE TOP
タイトルとURLをコピーしました