「実刑がイヤなら認めろ」はなぜ生まれるのか?――鈴木貴子衆議院議員の問題提起から考える、日本の検察・冤罪・人質司法と“正義の権威”思想:第二部 日本は「制度」は近代化したが、「権威観」は近代化したのか

水戸黄門型正義観――“正しい権力者”への期待

水戸黄門や大岡越前に代表される時代劇には、日本人の伝統的な正義観がよく表れています。
そこでは、
・悪人が庶民を苦しめる
・しかし最後には“徳の高い権力者”が現れ、
・真相を見抜き
・悪を裁き
・社会秩序を回復する
という構図が描かれます。

ここで重要なのは、日本型時代劇では、
「権力そのもの」
が悪として描かれるのではなく、
“悪い権力者”

“正しい権力者”
が区別される点です。
つまり、
 「正しい上位者が統治すれば社会は良くなる」
という発想
です。

日本は制度を近代化したが、精神文化はどうだったのか

明治維新以降、日本は急速に西欧型制度を導入しました。
 憲法
 議会
 裁判所
 官僚制
 近代法
などです。
しかし、西欧近代法の本質は、単なる制度導入ではありません。
その核心には、
 「人間は全知全能ではなく、誤ることもある」
という前提
があります。
だからこそ、
 三権分立
 推定無罪
 権力分散
 適正手続
が必要になる。
つまり近代制度とは、
 「善人が統治する制度」
ではなく、
 「不完全な人間同士が互いに牽制し合う制度
なのです。

儒教的統治観と“無謬なエリート”思想

一方、日本社会には、儒学の影響を受けた、
 徳治主義
 上下秩序
 教導型統治
の発想が強く残りました。
もちろん、それ自体が全面的に悪というわけではありません。
実際、
 公共心
 義務感
 廉恥
 責任感
など、日本社会の長所を支えた面もあります。
しかし問題は、
 「上に立つ者は正しくあるべき」
という期待
が、
いつの間にか、
 「上に立つ者は正しいはずだ」
へ変質する
ことです。
すると、
 検察
 官僚
 裁判所
 大手メディア
などが、“間違えてはいけない存在”になっていく。
そして、その無謬性を守ること自体が、組織目的化し始めるのです。

なぜ日本では「誤りを認めること」が難しいのか

もし、
・検察が誤ることもある
・裁判所が誤ることもある
・官僚が誤ることもある

という現実を認めれば、
 「権威そのもの」
が傷つく。
そう考える文化
では、
組織は無意識に、
・失敗を隠し
・面子を守り
・自己正当化し
・冤罪を認めにくくなる
方向へ傾きやすくなります。
これは個人の悪意というより、
 “無謬性を求める社会”
が生み出す構造問題
です。
そしてその構造は、
司法だけでなく、
 官僚制
 教育
 企業不祥事
 メディア
など、日本社会の多くの場面に共通しています。

近代法治国家とは、「善人統治」ではない

近代立憲主義の本質は、
 「立派な人が統治するから安心」
ではありません。
むしろ逆です。
・人は誤る
・権力は暴走する
・正義感すら危険になりうる
だからこそ、
 権力分立
 推定無罪
 証拠主義
 再審制度
 言論の自由
が必要になる。
つまり近代法治国家とは、
 「無謬なエリートを信じる制度」
ではありません。
むしろ、
「どれほど優秀なエリートであっても、人間である以上、誤ることはあり得る」
という前提
に立ち、その誤りや暴走を、制度によって互いに牽制・抑制する仕組みなのです。

おわりに――「正義を信じすぎる社会」が冤罪を生む

「実刑がイヤなら認めろ」
もしその言葉が、本当に取調べの現場で使われているのなら、それは極めて重い問題です。
なぜならその瞬間、司法は、
 「真実を探す場」
から、
 「認めさせる場」
へ変質してしまうからです。
しかし本当に考えるべきなのは、検察だけではありません。
なぜ日本社会では、
 “正義のエリート”
 “立派な権威”
 “間違えない組織”
を、ここまで求めてしまうのか。
そしてなぜ、
 「権力も誤る」
という近代法の核心思想
が、十分に社会へ根づきにくいのか。
冤罪は、単なる捜査ミスだけで生まれるのではありません。
それは、
「正義を担う側は誤らないはずだ」
と、社会全体が無意識に信じ込みすぎてしまう構造
によっても、生み出されるのです。

本当に必要なのは、
 「どれほど優秀な人や組織であっても、誤ることはあり得る」
 という前提
に立ち、
 権力同士が互いに牽制し合いながら、暴走や誤りを防いでいける社会

なのではないでしょうか。

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