あなたは何のための「報道の自由」なのかご存じですか?:5月3日は「世界報道自由デー」

「世界報道自由デー」とは

世界中の報道の自由を守ることと、仕事中に命を落としたジャーナリストの業績を称えることを目的として、1993年に国連総会で定められました。

『世界報道自由デー(5月3日)に向けた国連共同メッセージ』

ウェブサイト『国際連合広報センター』に掲載されている「世界報道自由デー(5月3日)に向けた国連共同メッセージ」(プレスリリース 02/041-J 2002年05月15日)の第5パラグラフを引用掲載します。
 
「 基本的な自由、人権、民主主義こそが、自由を保証するために最も重要です。報道と言論の自由は、それ自体望ましいものとして、またテロリズムに対する闘いを遂行する手段として、保護されるべきです。テロリズムに対する闘いにおいてメディアが果たしうる最大の役割は、自由に、独立して、責任を持って行動するということです。それは、脅しに負けてはならず、また愛国的な感情や煽動的な意見の単なる代弁者になってもならないということを意味します。そうではなく、メディアは、真実を追究し、それを公表し、情報や意見を偏りなく提示し、自分たちの発する言葉や映像を注意深く考え、ジャーナリストの名に恥じない高い規範を守らなければなりません。また、責任ある報道界であるためには、自らを制することが不可欠です。メディアに厳しい国家規制を課したいという誘惑に抵抗しなければならないのです。」

「報道の自由」は「国民の知る権利」(注1)に奉仕するもの!

『東京新聞TOKYO Web』によれば、世界報道自由デーの目的には、「ジャーナリストが自由かつ安全に情報を提供する権利の保護」だけではなくて、「一般市民が報道から正しい情報を得る権利の保護」も含まれています(注2)。

また、上記で引用した『世界報道自由デー(5月3日)に向けた国連共同メッセージ』の中にも、「メディアは、真実を追究し、それを公表し、情報や意見を偏りなく提示し、自分たちの発する言葉や映像を注意深く考え、ジャーナリストの名に恥じない高い規範を守らなければなりません。また、責任ある報道界であるためには、自らを制することが不可欠です。」と謳われています。

さて、コロナ禍において、日本のメディアは、「真実を追究し、それを公表し、情報や意見を偏りなく提示し」てきた、と胸を張って言えるのでしょうか?
たとえば、今現在のコオロギ食の推進の動向について、「真実を追究し、それを公表し、情報や意見を偏りなく提示し」ている、と自信をもって言えるのでしょうか?

「世界報道自由デー」は、
第一に、“世界中の「報道の自由」を守るのは何のためなのか?それは世界中の「国民の知る権利」を守るためである”
ということを再確認する日であるべきでしょう。
第二に、報道関係者が、国連共同メッセージに含まれている「責任ある報道界であるためには、自らを制することが不可欠です。」というメッセージを踏まえて内省する(注3)日でもあるべきでしょう。
私はそのように考えています。

(注1)「報道機関の報道は、民主主義社会において、国民が国政に関与するにつき、重要な判断の資料を提供し、国民の「知る権利」に奉仕するものである。したがつて、思想の表明の自由とならんで、事実の報道の自由は、表現の自由を規定した憲法21条の保障のもとにあることはいうまでもない。また、このような報道機関の報道が正しい内容をもつためには、報道の自由とともに、報道のための取材の自由も、憲法21条の精神に照らし、十分尊重に値いするものといわなければならない。」(博多駅テレビフィルム提出命令事件最高裁決定、最大決昭44・11・26刑集23巻11号1490頁)
(注2)『東京新聞TOKYO Web』には、「1993年12月の国連総会で制定。一般市民が報道から正しい情報を得る権利、ジャーナリストが自由かつ安全に情報を提供する権利の保護が目的です。」と記載されています。
(注3)民間の報道機関は商業主義的な報道ぶりをしがちです(いわゆる商業マスコミ)。また、報道機関の御都合主義で(?)「国民の知る権利」を度外視する「報道しない自由」を行使しているのではないか?と問題視されることがあります。

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