はじめに
日本の学校におけるいじめ問題は、長年にわたり繰り返し社会問題化してきました。法整備も行われ、学校現場でも「いじめ防止」を掲げた取り組みは数多く存在します。しかし現実には、いじめが深刻化し、最悪の場合、子どもが命を絶つという事案が後を絶ちません。
なぜ日本のいじめ対策は、ここまで「実効性」を欠いてしまうのでしょうか。本シリーズでは、個々の学校や教師の善意・努力の問題に還元するのではなく、制度・組織構造・社会意識という三つの層から、この問題を掘り下げていきます。
あらかじめ、本シリーズ全体の構成を示しておきます。
第1回:制度・運用レベルの構造的欠陥(今回)
──なぜ学校と教育委員会による対応は、被害者保護よりも問題の矮小化に傾きやすいのか
第2回(予定):なぜ隠蔽が合理的になってしまうのか
──「和」「空気」「責任回避」という日本社会の意識構造
第3回(予定):では何をどう変えればよいのか
──第三者機関の導入、責任設計の見直し、被害者保護の具体策
第1回となる今回は、まず「制度と運用」の観点から、日本のいじめ対策が抱える根本的な欠陥を整理します。
いじめ対策が機能しにくい制度的構造
(1)学校が「当事者」であり「調査者」でもある矛盾
日本では、いじめの調査・認定の主体は、原則として学校および教育委員会です。一見すると合理的に見えますが、ここには重大な問題があります。
いじめが正式に認定されるということは、
・学校の管理体制に問題があったこと
・教職員の対応が不十分だった可能性
を、学校自身が認めることを意味します。つまり、学校は当事者でありながら、自らを裁定する立場にも置かれているのです。
これは、企業不祥事や医療事故を当事者組織だけで調査させるのと同じ構造であり、どうしても「問題を小さく見せたい」という力が働きます。
(2)「いじめではない」という方向への誘因
その結果、現場では次のような説明が多用されがちです。
「いじめとまでは言えない」
「双方に行き違いがあった」
「悪意のない行動だった」
「指導によって改善済みである」
これらは一見、冷静でバランスの取れた表現に見えます。
しかし実際には、いじめという事実を公式化しないための言語操作として機能している場合が少なくありません。
その背後にあるのは、
・学校評価への影響
・管理職の経歴への傷
・保護者トラブルや訴訟リスクへの恐れ
といった、極めて現実的な事情です。
「加害者」を曖昧にする運用の問題
(1)行為は問題だが、加害者はいない?
現場ではしばしば、
「加害者という言い方は控えてほしい」
という説明がなされます。配慮のつもりで使われる表現ですが、これは被害者側から見れば、きわめて重い意味を持ちます。
・被害を受けた事実はある
・しかし、それを行った責任主体はいない
このような構図は、被害だけを残し、責任を消滅させる結果をもたらします。
(2)責任を曖昧にすることの代償
加害者を曖昧にする運用は、短期的には学校運営を円滑にするかもしれません。
しかし長期的には、次のような深刻な影響を生みます。
・被害者の尊厳が否定される
・被害者が「声を上げた側が悪い」と感じる
・加害行為が抑止されない
結果として、「相談しても無駄」「言えば状況が悪化する」という学習が子どもに刻み込まれてしまいます。
初動対応が再被害を生む現実
(1)不適切な聞き取りの危険性
いじめ相談後、学校がすぐに行う対応としてよく見られるのが、
・その日のうちに加害とされる生徒へ直接聞き取り
・複数人を一度に集めた場での事情聴取
といった方法です。
しかし、これは調査としても、被害者保護の観点からも不適切です。
・誰が相談したのかが即座に特定される
・力関係の分析が行われない
・再発防止措置が伴わない
この結果、報復いじめや孤立の激化が起こるケースは少なくありません。
(2)「相談=リスク」というメッセージ
こうした経験を目の当たりにした子どもたちは、次第に次のように考えるようになります。
・先生に言っても守られない
・むしろ状況が悪くなる
・我慢するしかない
これは、いじめ対策として最も避けるべき事態です。相談ルートが存在していても、信頼できなければ意味がありません。
おわりに(第2回への予告)
第1回では、日本のいじめ対策が制度・運用の段階で抱えている構造的問題を見てきました。これらは、個々の教師の資質や努力だけでは解決できない問題です。
次回(第2回)では、視点をさらに広げ、
・なぜ学校や教育委員会は「隠したくなる」のか
・日本社会に根付く「和」「空気」「責任回避」の文化
といった社会意識・価値観の問題に踏み込んでいきます。
いじめは子どもだけの問題ではありません。私たち大人社会の縮図として、この問題を考えていきたいと思います。
