なぜ知識人のSNS発言は、しばしば誤解を生むのか
近年、X(旧Twitter)をはじめとするSNS上で、学者や思想家、評論家といった、いわゆる「知識人」が発信する短文の言葉が、激しい論争や誤解を招く場面を頻繁に目にするようになりました。
そのたびに私は、ある疑問を抱かずにはいられません。
なぜ、思想的論戦を数多く経験してきたはずの人たちが、誤解を招くことが十分に想定できる表現を、あえて一般SNSという場に投じるのだろうか。
それは軽率なのでしょうか。
それとも、炎上や反発を織り込んだうえでの計算なのでしょうか。
本稿では、特定の人物を断罪することを目的とせず、知識人が一般SNSで発言する際に、どのような配慮が求められるのかを考えてみたいと思います。
一般SNSは「前提が共有されない空間」です
学術論文や専門書、あるいは論壇誌における議論では、一定の前提知識や概念理解が共有されています。
比喩表現や強い言い回しであっても、文脈の中で意味が補完され、誤読は比較的起こりにくい環境です。
しかし、一般SNSはまったく異なります。
・読み手の知識レベルや関心は多様
・投稿は文脈から切り取られやすい
・善意の誤解だけでなく、悪意ある解釈も混在する
・政治的・感情的動員に使われる可能性が常にある
こうした環境において、専門家向けの言葉遣いをそのまま投げることは、意図せぬ誤解や対立を生みやすいと言わざるを得ません。
「分かる人には分かる」は一般SNSでは通用しない
知識人がしばしば陥りがちなのが、
「これは比喩だと分かるはずだ」
「文脈を読めば明らかだ」
という感覚です。
しかし一般SNSでは、その“分かるはず”の前提自体が共有されていません。
しかも、影響力のある人物ほど、その言葉は広く拡散され、文脈を失ったまま一人歩きします。
その結果として生じる誤解や反発に対し、
「誤解した側が悪い」
「読解力の問題だ」
と突き放す態度は、知識人としての公共的責任を果たしているとは言いにくいのではないでしょうか。
表現の自由と、言葉の「公共的責任」
ここで誤解してはならないのは、
「配慮を求めること」は「表現の自由を制限すること」ではない、という点です。
誰であれ、意見を述べる自由は守られるべきです。
しかし同時に、言葉が社会に与える影響を熟知している立場の人には、
その自由に伴う責任がより重くのしかかります。
とくに知識人は、
・自らの言葉が持つ影響力を自覚している
・誤読や切り取りが起こりうることを知っている
・社会的分断が深まる構造を理解している
はずの存在です。
だからこそ、
「何を言うか」だけでなく、「どの場で、誰に向けて、どう言うか」
への配慮が求められるのだと思います。
私たちが求めているのは「沈黙」ではありません
私が願っているのは、知識人にSNSでの発言を控えてほしい、ということではありません。
むしろその逆です。
社会が複雑化し、誤情報や扇動が溢れる時代だからこそ、
知識人の言葉には大きな価値があります。
ただしそれは、
・一般の人にも伝わる言葉で
・無用な誤解を避ける工夫がなされ
・批判の対象や射程が明確に示された
公共性を意識した言葉であってこそ、生きるものだと思います。
結論――公共知の質を守るために、知識人に求めたいこと
改めて、私の主張の核心を述べます。
知識人・教養レベルの高い人こそ、一般SNSでは、分かりやすく、誤解を避ける十分な配慮をした文章で発信してほしい。
これは、表現の自由を狭めるものではなく、むしろ公共知の質を守るための要求です。
刺激的な短文で注目を集めることよりも、
丁寧に言葉を選び、社会に残る議論を育てること。
それこそが、知識人が公共空間で果たすべき役割ではないでしょうか。
