言葉を変えれば問題は変わるのか――「不法移民」をめぐる議論が見落としがちなもの

はじめに

私はこれまで、「日本の外国人政策を問い直す」と題して、日本の外国人受け入れ政策について考察してきました。
その中で一貫して指摘してきたのは、日本では外国人受け入れの拡大が進められてきたにもかかわらず、その是非について十分な国民的議論が行われてきたとは言い難いという点です。
歴代政権は長年にわたり、
「日本は移民政策を採っていない」
と説明してきました。
しかし現実には、外国人労働者の受け入れは拡大し、外国人住民の数も増加してきました。
私は、そのこと自体に賛成か反対かをここで論じたいわけではありません。
問題は、そのような国家の将来像に関わる重要なテーマについて、主権者たる国民が十分な情報を共有し、自由に議論する機会が十分に確保されてきたのかという点です。
そうした問題意識から現在の議論を見ていると、近年広がりつつあるある主張に違和感を覚えます。
それは、
「不法移民という言葉は使うべきではない」
という主張です。
一見すると単なる言葉遣いの問題のように見えます。
しかし私は、その背後にある問題の方が重要ではないかと考えています。

言葉は単なるラベルではない

政治や社会問題において、言葉は単なるラベルではありません。
同じ現象であっても、どのような言葉で表現するかによって、人々の受け止め方は大きく変わります。
例えば、
「増税」と「負担の適正化」
「不法占拠」と「無許可利用」
「不正受給」と「誤受給」
では、受ける印象が異なります。
もちろん、言葉を選ぶこと自体は悪いことではありません。
問題は、その言葉によって何が強調され、何が見えにくくなるのかという点です。
移民問題についても同じことが言えます。
「不法移民」という表現からは、多くの人が法律違反という側面を連想するでしょう。
一方で、「非正規移民」や「無登録移民」という表現からは、行政上の手続きや書類の問題という印象を受ける人もいるかもしれません。
どちらの表現を用いるかによって、人々が現実をどのように認識するかは少なからず影響を受けます。
だからこそ、この問題は単なる用語論争として片付けるべきではないのです。

本来議論すべきなのは何か

もちろん、「不法移民」という表現を避けるべきだと考える人々の中には、人権への配慮を重視している人もいるでしょう。
そのこと自体を否定するつもりはありません。
しかし、ここで見失ってはならないことがあります。
それは、本来議論すべきなのは言葉ではなく政策だということです。
日本は今後どの程度の外国人を受け入れるのか。
外国人労働者の受け入れをどこまで拡大するのか。
難民認定制度はどうあるべきなのか。
法令違反があった場合にはどのように対応するのか。
外国人との共生をどのように実現するのか。
本来問われるべきなのは、こうした問題です。
ところが、議論の焦点が「どの言葉を使うべきか」という話に移ると、肝心の政策論が後景に退いてしまいます。
これは決して望ましいことではありません。

日本の外国人政策にも同じ問題があった

実は、この問題は一部の活動家や支援団体だけの問題ではありません。
私は、政治の側にも同じ問題があったと考えています。
歴代政権は長年、
「移民政策ではない」
と説明してきました。
しかし実際には、外国人労働者の受け入れは拡大を続けてきました。
その評価は人それぞれでしょう。
しかし少なくとも、
「移民政策ではない」
という説明と、
外国人受け入れの拡大という現実との間に乖離を感じた国民は少なくないはずです。
つまり日本では、外国人政策そのものについても、言葉によって実態が見えにくくなっていた側面があるのです。
私は、この構図と「不法移民」という言葉を避ける議論との間に共通点を感じます。
どちらも、言葉そのものよりも、その言葉が現実をどのように見せるのかという問題だからです。

なぜ違和感を覚えるのか

私は、「不法移民」という言葉の使用そのものを否定したいわけではありません。
また、「非正規移民」という言葉を用いる人を非難したいわけでもありません。

私が違和感を覚えるのは、言葉の言い換えが先行し、その背後にある政策論が置き去りにされることです。
実際、日本では「不法移民」という表現の見直しを主張する人々の中に、外国人受け入れ拡大や権利拡大を支持する立場が見られることがあります。
それ自体は民主主義社会において当然認められるべき意見です。
しかし、もし受け入れ拡大を主張するのであれば、その必要性や影響について正面から国民に説明し、理解を求めるべきではないでしょうか。
言葉の問題を入り口にすること自体は構いません。
しかし、それによって政策論そのものが見えにくくなるのであれば、本末転倒です。
民主主義社会において必要なのは、言葉の統一ではなく、政策をめぐる自由で開かれた議論だからです。

本当に必要なのは国民的議論である

移民受け入れに賛成する人もいるでしょう。
反対する人もいるでしょう。
どちらの立場も民主主義社会では尊重されるべきです。
重要なのは、その議論を避けないことです。
もし日本が移民国家になるのであれば、その是非を国民が正面から議論しなければなりません。
もし移民国家にならないのであれば、そのための制度設計を議論しなければなりません。
どちらを選ぶにしても、主権者たる国民が現実を正しく認識し、自ら判断することが不可欠です。
そのためには、現実を見えにくくするような議論ではなく、現実を正面から見据える議論が必要です。
私たちが本当に向き合うべきなのは、「不法移民」という言葉そのものではありません。
その背後にある外国人政策のあり方であり、日本という国の将来像なのです。

ここで確認しておきたい点があります。
仮に将来、日本が十分な国民的議論と民主的手続きを経て、現在よりも積極的な外国人受け入れ政策を採用したとしても、それは国境管理や出入国管理が不要になることを意味しません。
外国人を受け入れる国家であることと、誰でも無条件に受け入れる国家であることは全く別の話です。
実際、世界の主要な移民受け入れ国も、それぞれの法律に基づいて厳格な出入国管理を行っています。
移民政策と国境管理は、本来両立するものです。
したがって、仮に日本が将来、国民的議論を経て移民受け入れを選択したとしても、不法入国や不法残留という問題がなくなるわけではありません。
法令を守って入国し在留する外国人と、法令に反して入国・在留する外国人との区別は、どのような国家であっても必要になるからです。
だからこそ、「日本は外国人をどのように受け入れるべきか」という議論と、「法令違反状態にある外国人をどのように位置づけるのか」という議論は、本来切り分けて考えなければなりません。
移民受け入れに賛成か反対かという立場の違いはあっても、主権国家が出入国管理を行い、法の支配の下で制度を運用することは当然の前提です。
その前提を曖昧にしたまま言葉だけを議論しても、本質的な問題の解決にはつながりません。
私たちに必要なのは、言葉の言い換えをめぐる議論ではなく、日本の外国人政策をどうするのかという議論です。
そして、その議論を行う主体は、活動家でも行政でもメディアでもありません。
主権者たる国民自身なのです。

おわりに

「不法移民」と呼ぶべきか、「非正規移民」と呼ぶべきか。
この問いに対する答えは、人によって異なるでしょう。
しかし、より重要なのは、その言葉が何を見えやすくし、何を見えにくくするのかを考えることです。
民主主義社会において必要なのは、特定の言葉を強制することではありません。
現実を正しく認識し、自由に議論し、主権者たる国民が自ら判断することです。
日本の外国人政策をめぐる議論もまた、その原点に立ち返る必要があるのではないでしょうか。

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