はじめに
韓国の大韓商工会議所文化観光産業委員会が、「韓日版シェンゲン協定」や、パスポートを使わず身分証だけで日韓を往来できる制度の創設などを提言したという。
観光業界としては、旅行者を増やしたいという思いから出てきた提案なのだろう。
しかし、出入国在留管理行政に携わった立場から率直に申し上げれば、この提案は国家の出入国管理制度をあまりにも軽く考えた、現実性を欠く議論である。
シェンゲン協定だけを真似しても意味はない
提案の根拠として挙げられているのが、ヨーロッパ(欧州)のシェンゲン協定である。
しかし、ここで見落としてはならないのは、シェンゲン制度は単独で存在している制度ではないという事実である。
シェンゲン制度は、欧州連合(EU)を中心とする長年にわたる政治・経済・司法協力の積み重ねの上に成り立っている。
加盟国は単に観光客を自由に往来させているだけではない。
経済政策、司法協力、警察協力、犯罪情報の共有、査証政策、難民政策、さらには対外的な国境管理など、多岐にわたる制度を長年かけて整備し、加盟国相互の信頼関係を築いてきた。その積み重ねの上に、域内の自由な移動が成り立っているのである。
つまり、シェンゲン制度の一部だけを切り取って「便利だから真似しよう」という発想自体が、本質を理解していないと言わざるを得ない。
日本と韓国には、その前提条件が存在しない
日韓両国の間に、EUのような共同体は存在しない。
共通の議会もなければ、共通の司法制度もない。
警察権限も統合されていない。
外交・安全保障政策も共有していない。
査証政策も異なる。
難民認定制度も異なる。
出入国管理制度も異なる。
外国人の受入れ政策も大きく異なる。
さらに、安全保障を巡る認識、歴史認識、外交課題についても、両国の間には依然として少なくない隔たりがある。
つまり、「シェンゲン協定」という制度だけを持ってくればよいという話ではなく、その制度を支える政治的・法制度的な基盤も、国民的なコンセンサスも存在しないのである。
出入国管理は観光振興策ではない
今回の提案を読んで最も違和感を覚えたのは、出入国管理制度が観光産業の利便性向上策の一つとして語られている点である。
出入国管理とは、本来、国家主権の根幹を成す行政である。
誰を入国させるのか。
誰を拒否するのか。
誰に在留を認めるのか。
誰を退去強制するのか。
これらは国家が自らの責任において判断すべき事項であり、観光業界の利益だけで左右される性質のものではない。
もちろん、観光客を増やすこと自体は重要である。
しかし、そのために国家の出入国管理制度を簡略化するのであれば、安全保障、テロ対策、国際犯罪対策、不法滞在対策、不法就労対策など、あらゆるリスクとの均衡を慎重に検討しなければならない。
「観光客が増えるから便利にしましょう」というだけで議論できるほど、出入国管理は軽い制度ではない。
パスポート(旅券)には国家が保障する意味がある
今回の提言では、「マイナンバーカードや韓国の住民登録証だけで往来できる制度」まで議論されたという。
確かに、パスポート(旅券)には本人確認書類としての機能もある。
しかし、それにとどまらない。
パスポートは、国家がその所持者の国籍と身元を公証し、外国政府に対し、その者が自国民であることを証明するとともに、必要な保護と便宜を与えるよう要請する公文書である。
現在の国際的な出入国管理制度は、この旅券制度を前提として成り立っている。
したがって、「身分証があるからパスポートはいらない」という議論は、旅券制度が果たしている国際法上・実務上の役割を十分理解したものとは言い難い。
「段階的に始める」という発想にも疑問が残る
報道では、「まずは特定路線だけ」「実証事業から」といった意見も紹介されている。
しかし、国家主権に関わる制度は、「試しにやってみよう」という発想になじまない。
一度制度を導入すれば、それを前提とした権利や期待が生まれる。
制度を元に戻すことは容易ではない。
だからこそ、出入国制度は慎重に制度設計されるのである。
「実証実験だから」という軽い発想で扱うべき政策ではない。
観光振興なら、まず他にやるべきことがある
観光客の利便性を高めたいのであれば、取り組むべき課題は数多くある。
多言語案内の充実。
キャッシュレス決済の普及。
交通機関の乗継改善。
通信環境の整備。
観光情報の一元化。
災害時の外国人支援。
こうした施策は、安全保障や国家主権を揺るがすことなく実現できる。
まずは、こうした分野を着実に改善することこそ現実的な観光政策ではないだろうか。
おわりに――夢を見る前に、国家制度を理解してほしい
観光業界が観光客を増やしたいと考えること自体を否定するつもりはない。
しかし、その目的のために国家の出入国管理制度まで「もっと便利に」「もっと簡単に」と発想するのであれば、その制度が何のために存在しているのかをまず理解すべきである。
しかも、そのモデルとされるシェンゲン制度ですら、近年は不法移民問題やテロ対策、治安上の必要性などを背景として、多くの参加国が協定で認められた例外措置に基づき、一時的に域内国境管理を再導入している。
つまり、自由な往来とは無条件・無制約の制度ではなく、安全保障上の必要があれば国境管理を復活できる仕組みなのである。
そうした現実を見れば、「韓日版シェンゲン協定」という発想が、制度の表面だけを見た議論であることは明らかであろう。
日韓両国には、その制度を支える政治的基盤も、法制度の共通性も、国民的コンセンサスも存在していない。
その現実を直視せず、「韓日版シェンゲン協定」という言葉だけが独り歩きするのであれば、それは政策提言ではなく、観光業界が描いた夢物語にすぎない。
国家の出入国管理制度は、旅行商品の付加価値を高めるための販促ツールではない。
それは、国家主権と国民の安全を守るために築き上げられた制度なのである。
