「正義」はなぜ対話を失うのか―日本のプロテスタント教会が社会との距離を広げてしまう理由を考える―

最近、日本のキリスト教団体が発表したある声明を読み、考えさせられることがありました。
その声明は、戦争責任や歴史認識を踏まえた上で、天皇制の終焉を求めるという内容でした。
私は、その結論に賛成できないからこの記事を書こうと思ったのではありません。
もっと気になったのは、その語り方です。
読んでいて感じたのは、「私たちはこう考える」という問題提起ではなく、「歴史はこう評価されるべきであり、その歴史認識に立つなら結論は一つしかない」という断定的な構成でした。
その瞬間、私は今年三月、このブログで書いた『日本のキリスト教はなぜ“左派に見える”のか?―構造・歴史・神学とガバナンスから読み解く誤解の正体』という記事を思い出しました。
あの記事で私が問題にしたのも、「保守かリベラルか」ではなく、「教会が社会とどう対話するか」という姿勢だったからです。

問題は「左派か右派か」ではない

宗教団体が政治的・社会的な意見を表明すること自体は、もちろん表現の自由です。
平和について語ることも、人権について語ることも、政治制度について意見を述べることも自由です。
問題は、その語り方です。
歴史認識には様々な研究があり、法的評価にも政治的評価にも幅があります。
しかし、一部の声明には、そのような多様な議論に向き合おうとする姿勢よりも、自らの歴史認識を唯一の前提として、その延長線上に政治的結論を位置づける構成が少なくありません。
それは「私たちはこう考える」という問題提起ではなく、「歴史を正しく理解すれば結論は一つしかない」という宣言のように響きます。
民主主義社会において、歴史認識も政治的選択も、本来は議論を通じて深められていくものです。
異なる立場との対話を前提としない言論は、共感を広げることよりも、自らの正しさを確認することへと傾きやすくなります。

「確証バイアスの共同体化」という現象

私は、この現象は宗教だけの問題ではないと思っています。
政治運動でも、市民運動でも、保守にも革新にも、そしてSNS上のコミュニティにも起こり得ることです。
心理学には「確証バイアス」という言葉があります。
人は、自分の考えを支持する情報を集め、自分に都合の悪い情報を無意識に軽視する傾向があります。
これ自体は誰にでもある、人間の自然な認知の特性です。
しかし、それが共同体全体で繰り返されるとどうなるでしょうか。
同じ歴史認識を持つ人だけで議論し、互いに「私たちは正しい」と確認し合う。
外部からの異論は、「歴史を知らない」「人権意識が低い」「民主主義を理解していない」と受け止められ、真剣に検討される前に退けられてしまう。
その結果、共同体の内部では確信がますます強まり、外部との対話はますます難しくなります。
私は、この状態を「確証バイアスの共同体化」と呼びたいと思います。
これは宗教だけに見られる現象ではありません。
だからこそ、宗教にはむしろ、その誘惑を乗り越える役割が期待されるのではないでしょうか。

少数派だからこそ必要なのは対話ではないか

日本のキリスト教は、日本社会では少数派です。
少数派であることは、決して弱みではありません。
多数派とは異なる視点を社会に提供できるという、大切な役割があります。
しかし、その役割を果たすために必要なのは、「私たちだけが正しい」という確信ではなく、「なぜそう考えるのか」を社会に丁寧に語り続ける姿勢でしょう。
近年、一部のプロテスタント教会の声明を読んでいると、社会に向かって対話を呼びかけているというよりも、教会内部で自らの正しさを確認し合っているような印象を受けることがあります。
その結果、社会との距離は縮まるどころか、かえって広がっているように見えるのです。
私は、そのことを残念に思います。

信仰は人を謙虚にするためのものではないか

宗教には、本来、大きな力があります。
人間の傲慢さを戒め、自らの限界を見つめ直し、自分自身を問い続ける力です。
だからこそ私は、信仰が政治的な確信を支えるための「権威」として用いられる姿を見ると、違和感を覚えます。
本来の信仰とは、「自分たちだけが正しい」と確信するためのものではなく、自分自身もまた誤り得る存在であることを忘れないための営みではないでしょうか。
その謙虚さを失ったとき、宗教は社会との対話を閉ざし、自らの世界だけで完結する共同体になってしまいます。

おわりに

私は、日本のキリスト教が社会の中で影響力を失っていくことを喜びたいわけではありません。
むしろ残念に思っています。
キリスト教には、人間の尊厳、平和、赦し、隣人愛など、日本社会に大切な価値を語り続けてきた歴史があります。
だからこそ、その価値を社会に伝えようとするのであれば、自らの歴史認識や政治的信念を唯一の正解として語るのではなく、異なる立場の人々とも粘り強く対話する姿勢を取り戻してほしいと願っています。
宗教の使命は、人々を「正しい側」と「間違った側」に分けることではありません。
異なる立場の人とも向き合い、人間の限界をともに見つめながら、より良い社会を探し続けることにあるのではないでしょうか。
宗教は、人を裁くためではなく、人と人をつなぐためにある。
その役割を忘れたとき、宗教は社会との対話を失い、やがて社会の中で孤立していく。
正義そのものが対話を失わせるのではない。
自らの正義を疑わなくなったとき、人は対話を失う。

私は、そう考えています。

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