※本稿は、これまで本ブログで取り上げてきた外国人政策・共生社会・排外主義などに関する一連の記事の総括として執筆したものです。
はじめに
最近、SNSを見ていると、以前にはあまり見かけなかった言葉を目にするようになりました。
「もう排外主義で何が悪い。」
「日本人ファーストを守るには、それくらい言わないと駄目だ。」
「きれいごとでは日本は守れない。」
こうした投稿に共感する人も、以前より増えているように感じます。
私は、このような考え方が生まれてくる背景そのものを、一方的に否定するつもりはありません。
長年続いてきた外国人政策への不満、マスメディアの偏った報道に対する不信感、行き過ぎたグローバリズムや「共生社会」の名のもとに、日本人だけが我慢を求められているように感じる場面への違和感――そうしたものが積み重なれば、「もう遠慮する必要はない」と考える人が出てくるのも、ある意味では自然なことなのかもしれません。
実際、私自身もこれまでこのブログで、外国人政策の問題点や、ルールを軽視した「えせ多文化共生」、日本人にだけ負担を強いるような逆差別的な風潮、さらにはマスメディアの偏向報道などについて、繰り返し問題提起をしてきました。
しかし、それでも私は、「だから排外主義になろう」という結論には賛成できません。
それは道徳論ではありません。
「外国人にも優しくしましょう」という感情論でもありません。
もっと現実的な理由があります。
それは、排外主義という考え方は、日本を守るための有効な武器にはならないからです。
むしろ、その武器を手にした瞬間、本来なら多くの国民が共有できたはずの正当な問題提起まで、「極端な意見」と一括りにされ、政策論そのものが社会から受け入れられにくくなってしまいます。
つまり、日本を守ろうとして選んだはずの手段が、結果として、自分たちの主張を弱めてしまうのです。
今回の記事でお伝えしたいのは、「外国人政策を議論するな」ということではありません。
その逆です。
外国人政策は、日本の将来に関わる重要な政策です。だからこそ、感情論ではなく、事実と制度、そして法の支配という土台の上で議論されなければなりません。
そのためにも、「外国人政策への批判」と「排外主義」は、きちんと区別して考える必要があります。
この二つを混同してしまうと、本来守りたかったものまで守れなくなるかもしれません。
今回は、その理由について、できるだけ分かりやすく考えてみたいと思います。
第一章 なぜ「排外主義でも構わない」と思う人が増えているのか
近年、SNSを見ていると、「もう排外主義でも構わない」という趣旨の投稿を見かける機会が増えました。
もちろん、日本人全体から見れば、まだ少数派でしょう。しかし、以前であれば口にすることさえためらわれたような言葉が、公然と発信され、それに一定の共感が集まっていることも事実です。
では、なぜ、そのような変化が起きているのでしょうか。
私は、その理由を「外国人が増えたから」という一言だけで説明するのは正確ではないと思います。
むしろ、その背景には、いくつもの要因が積み重なっているのではないでしょうか。
例えば、外国人による犯罪や迷惑行為が報道される一方で、「外国人だから」という理由だけで必要以上に報道を控えているように見えるケースがあることに、多くの人が違和感を抱いています。
また、ルールを守って生活している日本人よりも、外国人への配慮が優先されているように感じる場面に接し、「それは本当の公平なのだろうか」と疑問を持つ人もいます。
さらに、「多文化共生」や「多様性」といった理念が、本来目指すべき相互理解ではなく、日本社会だけが一方的に価値観や慣習を変えることを求めるような形で語られることに、違和感を覚える人も少なくありません。
安全保障の面でも、中国やロシア、北朝鮮をめぐる国際情勢が緊迫する中、中国共産党による対外的な影響力工作や、外国資本による土地取得などに関心を持つ人が増えています。
こうした問題意識そのものは、決して特別なものではありません。
民主主義国家において、自国の安全保障や外国人政策、報道の在り方について関心を持ち、議論することは、ごく自然なことです。
ところが、現実には、それらの問題を指摘しただけで、「排外主義だ」「差別だ」「ヘイトだ」と決めつけられたと感じる経験をした人も少なくありません。
もちろん、本当に差別的な発言や、外国人一般を敵視するような言動は批判されるべきです。
しかし一方で、制度や政策について冷静に議論しようとしているだけなのに、十分な議論を経ることなく人格まで否定されたと感じれば、人は「もう理解してもらおうとしても無駄だ」と考えるようになります。
そして、その積み重ねが、
「どうせ何を言っても排外主義と言われるのなら、本当に排外主義で構わない。」
という、ある種の開き直りにつながってしまうことがあります。
私は、この心理の流れ自体は理解できます。
誰でも、自分の意見を最初から決めつけられたり、レッテルを貼られたりすれば、反発したくなるものです。
しかし、「その気持ちが理解できること」と、「その結論が正しいこと」は、同じではありません。
ここは、冷静に分けて考える必要があります。
本当に考えなければならないのは、「なぜそのような言葉を口にする人が増えたのか」という原因だけではありません。
その結果として選ぼうとしている「排外主義」という手段は、本当に日本を守るために役立つのかという点です。
次章では、その点について考えてみたいと思います。
第二章 「外国人政策への批判」と「排外主義」は別物である
ここで、一度立ち止まって考えてみましょう。
外国人政策に問題があると思うことと、外国人そのものを排除しようと考えることは、本当に同じなのでしょうか。
私は、まったく別の問題だと考えています。
例えば、「不法滞在は厳しく取り締まるべきだ」という意見があります。
これは、法を守るという観点から制度や運用について議論しているのであって、外国人という属性そのものを問題にしているわけではありません。
「在留資格の審査はもっと厳格にすべきだ。」
「外国人による犯罪には、日本人と同じように厳正に対処すべきだ。」
「日本で生活する以上、日本の法律やルールを守ることを求めるべきだ。」
これらも同じです。
どれも政策や制度、法の執行についての議論であり、民主主義国家ではごく普通に行われる政策論です。
一方、排外主義は違います。
問題にするのは、違法行為や制度ではなく、「外国人」という属性そのものです。
つまり、「ルールを守っているかどうか」ではなく、「外国人だから」という理由で排除しようとする考え方です。
この違いは、とても重要です。
例えば、日本人の中にも犯罪を犯す人はいます。
外国人の中にも犯罪を犯す人はいます。
しかし、大多数の日本人は犯罪を犯していません。
同じように、多くの外国人も日本の法律を守り、地域社会の一員として生活しています。
だからこそ、法治国家では、「日本人だから」「外国人だから」という属性ではなく、「何をしたのか」という行為によって判断します。
もし、「外国人だから」という理由だけで一括して扱うのであれば、それは法の下の公平という原則から離れてしまいます。
ここで考えていただきたいことがあります。
もし、日本人が海外で暮らしている国で、一部の日本人が犯罪を犯したことを理由に、「日本人は信用できない」「日本人は出て行け」と言われたら、私たちはどう感じるでしょうか。
おそらく、多くの人は「犯罪を犯した人を処罰すること」と、「日本人全体を排除すること」は別問題だと考えるはずです。
日本国内でも、考え方は同じではないでしょうか。
違法行為は厳しく取り締まる。
制度に問題があれば見直す。
しかし、ルールを守って生活している人まで、国籍だけを理由に排除することは別の話です。
この区別が曖昧になると、本来は多くの国民が共有できるはずだった政策論まで、一緒に誤解されてしまいます。
さらに、もう一つ見落としてはならないことがあります。
外国人政策への批判が排外主義と混同されることは問題ですが、その逆もまた問題です。
つまり、自ら排外的な言葉を使ってしまうことで、本来は制度や政策についての正当な問題提起まで、「あの人たちは外国人が嫌いなだけだ」と受け取られてしまう危険があるのです。
そうなると、外国人政策を見直すべきだという主張も、入管制度を改善すべきだという議論も、犯罪対策を強化すべきだという提案も、すべて「ヘイトスピーチ」と同じ箱に入れられてしまいかねません。
これは、本当に望ましいことでしょうか。
私は、そうは思いません。
むしろ、日本の将来を真剣に考える人ほど、制度や政策を論じるときには、排外主義と受け取られるような表現とは一線を画すべきだと思います。
その方が、自らの主張に耳を傾けてもらえる可能性は高まり、結果として、日本社会に必要な政策論も前に進みやすくなるからです。
【後編】へ続く。
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〇2025年07月14日付け投稿記事『外国人の違法行為を批判すると「差別」になるのか?-報道の偏りと真の共生社会を考える』
○2026年01月21日付け投稿記事『「排外主義」とは何か-誤解を避けるために抑えるべき境界線』
○2026年01月22日付け投稿記事『排外主義はどこから違法になるのか-日本の法制度と国際人権法からの整理』
○2026年02月08日付け投稿記事『「それって本当にアウト?」-“排外主義”と言われる前に知っておきたい、法律と人権の話』

