歴史を記憶することと、恨みに支配されることは違う――一人の中国人の言葉が教えてくれた「成熟した歴史観」

時代の一歩先

はじめに

人は、過去を忘れてはならない。
しかし、人は、過去に支配され続けてもならない。
私は最近、この当たり前でありながら、ともすれば見失われがちな真理を、ある一人の中国人の短い文章から改めて教えられました。
その人物は、X(旧Twitter)で発信を続けている JUNLIANG JIANG(姜俊良) さんです。
ある日、私は彼の投稿を読み、思わず画面のスクロールを止めました。
そこには、次のような言葉が綴られていました。
「広島を忘れる日本人はいない。
 長崎を忘れる日本人もいない。
 しかしそれは、今を生きるアメリカの若者や観光客に向かって、80年前の怨念をぶつけることを意味しません。」
 (中略)
過去の痛みを記憶することと、過去の恨みに支配されることは全く別の次元の話なのです。」
私は、この文章に深く心を動かされました。
それは、中国人が日本を理解してくれたからではありません。
また、中国人だからこそ価値があるという話でもありません。
私が感銘を受けたのは、この言葉が国籍や民族を超えて、人類が歴史と向き合ううえで共有すべき普遍的な原則を語っていると感じたからです。

歴史を学ぶことは大切です。
戦争も、侵略も、植民地支配も、人権侵害も、決して忘れてはならないでしょう。
しかし、「歴史を忘れない」ということと、「現代を生きる人々に過去の責任を負わせ続ける」ということは、本当に同じなのでしょうか。
私は、この二つは明確に区別されなければならないと考えています。
これまで私は、このブログで、移民政策や表現の自由、法制度、歴史認識などについて、「理念だけではなく現実にも目を向けること」の大切さを繰り返し書いてきました。
同時に、感情に流された排他的なナショナリズムにも与しないという立場を、一貫して取ってきたつもりです。
だからこそ、今回の姜俊良さんの投稿には、一人の中国人としてではなく、一人の人間として深い敬意を覚えました。

本稿では、この投稿を出発点として、「歴史を記憶すること」と「恨みに支配されること」の違いについて考えてみたいと思います。
その視点から、日本とアメリカ、アメリカとイギリス、フランスとドイツ、そして日韓関係にも目を向けながら、「成熟した歴史観」とは何かを考えてみたいと思います。
政治的立場や国籍の違いを超えて、一人でも多くの方と、この問いを共有できれば幸いです。

「歴史を忘れない」と「現代人を憎み続ける」は同じではない

今年(2026年)は、アメリカ合衆国がイギリスからの独立を宣言して250年という歴史的な節目の年です。
アメリカでは、この出来事は建国の原点として語り継がれています。学校でも独立戦争や独立宣言について学び、多くの国民が自国の歴史として大切にしています。
では、現代のアメリカ人は、その歴史を理由に、今日のイギリス人へ敵意を向けているでしょうか。
おそらく、そのような光景を目にすることはほとんどありません。
もちろん、歴史を忘れたからではありません。
歴史を知ったうえで、それと現代を生きる個人とは別の問題であると理解しているからです。
現在のアメリカとイギリスは、政治・経済・安全保障など幅広い分野で緊密な協力関係を築いています。「特別な関係(Special Relationship)」と呼ばれる両国の結び付きは、まさにその象徴と言えるでしょう。
歴史を記憶していることと、現代の人々を敵視することとは違う
私は、この当たり前のようでいて、とても大切な姿勢を、英米関係から改めて考えさせられます。

このことは、日本にも当てはまります。
日本人は、広島への原子爆弾投下や長崎への原子爆弾投下を忘れてはいません。
毎年8月になれば慰霊式典が行われ、被爆体験は語り継がれます。学校教育の中でも、戦争の悲惨さとともに学び続けています。
しかし、だからといって、戦後に生まれたアメリカ人や、日本を訪れるアメリカ人観光客に向かって、「あなた方の国が原爆を落とした」と責任を問い続けることが、日本社会で当然視されているでしょうか。
そうではありません。
戦争という歴史を忘れていないことと、その歴史を現代人への憎しみに変えないことは、両立できるからです。

ここで、もう一度、姜俊良さんの言葉を思い出します。
「過去の痛みを記憶することと、過去の恨みに支配されることは全く別の次元の話なのです。」
私は、この一文こそ、本稿全体を貫く最も重要なメッセージだと思います。
「歴史を忘れないこと」は、人類にとって必要な責任です。
しかし、「憎しみを忘れないこと」は、必ずしも同じ意味ではありません。
もし、この二つを混同してしまえば、どれほど時代が進み、世代が入れ替わっても、過去の対立は未来へ引き継がれてしまいます。
歴史は、本来、未来をより良くするために学ぶものです。
過去を未来へ持ち込むためではなく、未来が同じ過ちを繰り返さないようにするために記憶するものです。
私は、この違いを理解することこそが、「成熟した歴史観」の第一歩なのだと思います。

「ハン」を知ることより、「ハン」を決めつけないこと

ここまで読まれた方の中には、「では、韓国で語られる『ハン(恨)』とは何なのだろう」と思われた方もおられるでしょう。
実は、私自身も以前は、「韓国人は『ハンの文化』だから、過去の恨みを忘れない民族なのだ」という程度の理解しかしていませんでした。
しかし、改めて韓国文化や思想に関する研究に目を通してみると、その理解はあまりにも単純だったことに気付きました。
韓国語の「ハン(한)」は、日本語の「恨み」という一語では十分に訳し切れない概念だとされています。
そこには、理不尽な苦しみ、報われない悲しみ、無念さ、抑圧された怒りなど、さまざまな感情が重なり合っています。
したがって、「ハン」は単純に「復讐心」を意味する言葉ではありません。
さらに重要なのは、「ハン」を韓国人全体の民族性そのものと考える見方についても、現在ではさまざまな議論があるということです。
かつては、「ハンこそ韓国民族の精神を象徴する感情である」と語られることも少なくありませんでした。
しかし近年では、そのような理解そのものが、近代以降の歴史やナショナリズムの中で形成され、広まってきた側面があるのではないかという研究も数多く発表されています。
つまり、「ハン」は確かに韓国の文学や芸術、歴史を考えるうえで重要な概念ではあるものの、それだけで韓国社会全体や韓国人一人ひとりを説明できるものではありません。
「韓国人は皆、ハンの文化だから恨みを忘れない。」
このような理解は、現在の韓国文化研究の到達点から見ても、適切とは言えないでしょう。

では、なぜ日本では、そのようなイメージが広く語られるのでしょうか。
私は、その背景には、「文化」と「政治」が混同される場面があることも一因ではないかと考えています。
韓国では、日本統治時代をめぐる歴史認識が、外交や国内政治、さらには社会運動の中で重要なテーマとして取り上げられてきました。
その過程で、「歴史を忘れてはならない」という考え方が、政治的な主張と結び付いて語られる場面も見られます。
しかし、それは「ハン」という文化概念そのものと同じではありません。
文化として語られる「ハン」と、政治や外交の文脈で語られる歴史認識とは、区別して考える必要があります。
もし、その区別を見失えば、日本人は「韓国人は皆、恨みに支配されている」と誤解し、韓国側もまた「日本は歴史を忘れようとしている」と受け止める。
そのような不幸なすれ違いが生まれる可能性があります。

だから私は、「ハン」を理解すること以上に、「ハン」という言葉だけで一つの国や国民を決めつけないことの方が大切なのではないかと思うのです。
歴史を正しく理解するためには、相手を単純化しないこと
それもまた、「成熟した歴史観」を支える大切な条件ではないでしょうか。

「ハン」の概念については、韓国文学・文化研究においても定義や位置付けについて様々な議論があります。本稿では特定の学説に依拠するものではなく、複数の研究動向を踏まえた概説として記述しています。

歴史が政治に利用されるとき、人は「過去」で「現在」を裁き始める

歴史は、本来、過去を知るために学ぶものです。
しかし、歴史が政治や外交、あるいは社会運動の中で利用され始めると、その役割は少しずつ変わっていきます。
過去の出来事を理解することよりも、現在の立場を正当化するための材料として用いられるようになるのです。
もちろん、歴史を政治が語ること自体は珍しいことではありません。
どの国でも、自国の歴史は教育や政治の中で語られます。

問題なのは、「歴史を語ること」ではなく、「歴史を利用すること」です。
その違いは、決して小さくありません。
歴史を語る目的が「未来への教訓」であるならば、私たちは過去から学ぼうとします。
しかし、歴史を利用する目的が「現在の対立を正当化すること」になると、私たちは過去を通して現在の人々を見るようになります。
すると、知らず知らずのうちに、次のような発想が生まれます。
 過去に被害を受けた。
  ↓
 その相手を忘れてはならない。
  ↓
 だから、その国の人々は現在でも批判され続けるべきだ。
ここで起きているのは、「歴史の継承」ではありません。
「責任の継承」です。

本来、歴史は出来事を記憶するものです。

しかし、政治的な文脈では、ときとして「出来事」だけでなく、「責任」や「敵意」まで世代を超えて受け継ぐべきものとして語られることがあります。
私は、この点にこそ注意が必要だと思います。
韓国では、日本統治時代をめぐる歴史認識が、外交や国内政治、社会運動などで重要なテーマとなってきました。
その過程で、歴史問題が現在の政治的な主張と結び付けられる場面も見られます。
その結果、日本では「歴史が政治的に利用されているのではないか」という受け止め方が広がり、相互の不信感を深める一因となってきました。
しかし、このような現象は韓国だけに見られるものではありません。
中国でも、欧米でも、日本でも、過去の歴史が現在の政治や世論形成の中で語られることはあります。
戦争、植民地支配、民族対立、宗教対立――。
世界を見渡せば、歴史が現在の政治に利用される例は決して珍しくありません。

だから私は、この問題を特定の国の問題としてではなく、人間社会が繰り返し陥りやすい問題として考えたいのです。
歴史を利用し始めたとき、人は相手の「現在」を見ることが難しくなります。
目の前にいる一人の人間ではなく、その人が属する国や民族の「過去」を見てしまうからです。

そして、その瞬間から、現代を生きる個人は、「自分とは無関係な時代」の評価まで背負わされることになります。
これは、本当に公平なことでしょうか。

私は、そうは思いません。
だからこそ、もう一度、姜俊良さんの言葉に立ち返りたいと思います。
「過去の痛みを記憶することと、過去の恨みに支配されることは全く別の次元の話なのです。」
この言葉は、「歴史を忘れよう」と言っているのではありません。
「歴史を未来のために生かそう」と呼び掛けているのです。
そして、その違いを見失わないことこそが、歴史を政治の道具ではなく、人類共通の教訓として未来へ受け継ぐための条件なのではないでしょうか。

終章 歴史は、未来のために記憶する

本稿は、一人の中国人による短い投稿から始まりました。
その投稿は、日本について語りながら、実は日本だけを語っていたのではありません。
中国を語っていたわけでも、韓国を語っていたわけでもありません。
人類が歴史とどう向き合うべきかという、普遍的な問いを投げかけていたのだと、私は思います。
歴史を忘れてはならない。
この言葉に異論を唱える人は少ないでしょう。
しかし、その言葉の本当の意味を、私たちはどこまで考えているでしょうか。
歴史を忘れないとは、過去の憎しみを未来へ引き継ぐことなのでしょうか。
それとも、同じ過ちを繰り返さないために記憶し続けることなのでしょうか。
私は、その答えは後者であると信じています
世界を見渡せば、かつて戦火を交えた国々が、長い時間をかけて信頼を築いてきた例は少なくありません。
 アメリカとイギリス。
 フランスとドイツ。
 そして、日本とアメリカ。
どの国も、歴史を忘れたから和解への道を歩んだのではありません。
過去を直視し、その記憶を未来への教訓へと変えてきたからこそ、今日の関係があります。
もちろん、現実の国際社会は理想だけでは動きません。
歴史認識をめぐる対立はこれからも続くでしょう。
政治や外交の場で、歴史が語られることもなくならないはずです。

だからこそ、私たち一人ひとりが忘れてはならない原則があります。
歴史に責任を持つことと、憎悪に支配されることは違う。
自国を愛することと、他国の人々を憎むことも違う。
そして、歴史を記憶することと、現代を生きる人々を過去だけで裁くことも違います。
成熟した社会とは、歴史を持たない社会ではありません。
歴史を直視しながら、その歴史に未来を支配させない社会です。
成熟した文明とは、過去に勝った文明でも、過去を忘れた文明でもありません。
過去を記憶しながら、その記憶を憎しみではなく知恵へと変えることのできる文明です。

本稿を書き終えた今、私の心に残っているのは、やはり姜俊良さんのこの一文です。
「過去の痛みを記憶することと、過去の恨みに支配されることは全く別の次元の話なのです。」
私は、この言葉を、日本人としてではなく、中国人の言葉としてでもなく、一人の人間がもう一人の人間へ語りかけた、成熟した歴史観の表明として受け止めました。
歴史は、過去のために学ぶものではありません。
未来のために学ぶものです。
その当たり前でありながら最も難しい原則を、国籍や民族を超えて共有できる社会こそ、私たちが次の世代へ受け継ぐべき、本当の意味で成熟した社会なのではないでしょうか。

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